木ノ根峠(千葉県南房総市高崎-富浦・丹生間)
この峠に賑わいが有った頃というと、江戸時代も終わりに近い頃であり、明治十八年に、この峠の東の山裾に
200メートルほどの素掘りのトンネルができ、このトンネルの南北に林道が開発され「木ノ根林道」と称される
新道が誕生すると、いつしか『木ノ根峠』を往来する旅人も絶えてしまった。
![]() 内田栄一氏の資料より引用 赤線が「木ノ根峠」を経由する旧街道 |
私が幼少の頃、時は戦後の物資の無いとき、昭和25年頃の記憶である。
家族総出で、近所の家族と一緒に『木ノ根峠』界隈に、燃料用の薪を拾いに行ったものだ。
わずか6〜7歳の少年にはこの峠までの登山道はいささかきつかった。
ましてや背中に小さな背負いハシゴにわずかながらも枯れ枝が束ねてくくりつけられているのだから
なおさら子供心にも苦しかった思い出が残る。
木ノ根峠付近の道から外れて、藪の中には「きじの巣」が有り、5〜7個の卵が有ったものだ。
松の大木の根元には「松茸」も有ったと記憶している。
さて、この峠に賑わいが有った頃に話を戻そう。
今から八百年前の治承四年(1180)源頼朝が安房の国に来た頃、すでに木ノ根峠は、
石井郷(岩井)と達良郷(富浦)を結ぶ要路だった。
里見義弘が天正五年(1577)房総の地を占領し富浦の岡本城に入城するときには木ノ根峠を通ったらしい。
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| 左の非舗装の道を登る(右の写真を参照) | 湯浴堂から五分ほど歩くと、旧木ノ根街道の立て札あり |
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| 足場の悪い急斜面を登る | 5、6年前の台風の時の倒木が残っている |
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| 5、6年前の台風の時の倒木が残っている | 土が流れ地盤が緩んでいる所で落石が目立つ |
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| 死木の株根に力が無くなり、落石を助長する | 尾根道は歩きやすい |
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| 峠からの展望は良く、岩井海岸、浮島、鋸山まで一望 | 現在の木ノ根峠 |
勝山藩が成立し寛文八年(1668)藩主酒井は木ノ根峠の管理に当った。
文化二年(1805)頃になると人々の往来、物資の運搬もようやく盛んになり、
高崎村の「又左衛門」「藤右衛門」「市郎右衛門」「仁右衛門」、丹生村の「助右衛門」「藤十郎」らが願主となり
道普請を施行した事を石碑に刻んで峠に残している。
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| 左の石柱の裏に道普請の願主らの名が刻んである | 茶店跡に、二体の地蔵尊は峠の守り神として鎮座している |
文化三年(1806)俳人・小林一茶は木ノ根峠の入口に有った高崎村の湯浴堂を訪れ、一句残している。
文政十年(1827)十返舎十九も「房総ひざくりげ」の道中記でこの峠に触れている。
最もこの峠に活気がみなぎっていたのは、天保十年(1840)房総沖に黒船が現れたときである。
江戸幕府は江戸湾防備のため各藩に房総警備を命じたので、木ノ根街道は交通の要路となった。
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| 江戸湾の浦賀にやってきた黒船のため、沿岸防備が活発になる |
明治十六年に「素掘りのトンネル・木ノ根隧道」を掘り始め、明治十八年に開通した。
明治三十四年、県立安房中学(現・安房高校)が開設されると、朝の5時に起きて四里(16キロ)ほどを
木ノ根林道を通学したのだ。
大正七年に鉄道が開通すると、通学のための木ノ根隧道の利用者はいなくなった。
鉄道工事の建設道路として線路に沿うように、海岸線の小さな入り江に突き出た岬の3箇所ほどに
素掘りのトンネルが掘られ、小浦村、南無谷村を結ぶ国道127号の元祖が出来上がり、
急な坂道を通る木ノ根林道を利用した陸路運搬は短い歴史の幕を閉じた。
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| 後方の山は高崎公園、私の家から50メートルほど |
この鉄道は高崎公園の山裾を迂回するように、盛り土をして造られた為、高崎村の湯浴堂は現在の土地に
移転を余儀なくされた。
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| 大正7年にこの地に移転した「湯浴堂の墓地」 | 湯浴堂の薬師堂の中には小林一茶の句額がある |
湯浴堂に湧出していた鉱泉の源泉は鉄道の下に誘導管を通し、かって繁栄した「湯本旅館」の源泉とした。
いつしか「湯本旅館」も廃業し、現在は井戸だけが残っている。
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さて、文化二年(1805)頃といえば、今から200年ほど前の話であり、祖先を遡る事も可能である。
高崎村の「又左衛門」を一例として見よう。・・・・私の祖先に当たるので。
| 文化二年(1805)の「又左衛門」を祖先として、私のルーツは下記のようである。 1805年 [祖祖祖祖父]「又左衛門」・・・(仮に)25歳として。 1805年 [祖祖祖父] 「又左衛門」の第一子誕生 (仮に)子供は平均で25歳で誕生した。 1830年 [祖祖父] 男子誕生 1855年 [祖父] 男子誕生 1880年 [伯父] 長男誕生 次男(定次郎) 三男(長松) ・・1905年、四男で又次郎誕生 ・・1914年、長男の第一子(誠一)誕生 ・・・・詳細の調査を要す ・・1945年、長男は7人の子供を残して他界する。 ・・・・詳細の調査を要す 1944年 [父] 又次郎・40歳の時、私が第五子(次男)として誕生 1948年、 誠一の第四子(次男・清)誕生 ・・・・詳細の調査を要す 現在の「又左衛門」の末裔は、誠一の第四子(次男・清)から見れば、六代目にあたり、 分家の私は、文化二年(1805)の「又左衛門」から五代目となる。 |
その他に史跡を撮影してきたのでいくつか紹介しよう。
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| 富浦の歌人の和歌の碑 | 一本松跡 |
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| 茶店跡 | 丹生村への道、途中で道が途絶えているとの事。 |
この資料を作成するに当たり、下記の文献を参照しました。
(富山町史史料編P244〜250)、房日新聞に掲載された富山町沼田源吾氏の投稿記事、
「房総のやまあるき」の作家・内田栄一氏の発行本の『房州 木ノ根峠』の章
ふるさとリポーター:近藤定夫 2007/2/25記