D90が観た画像  edojyo-001

撮影地
撮影日時
作品のタイトル 大田道灌時代の江戸城
作品の概要 太田道灌時代の江戸城は、小さな規模(現在の本丸部分くらい)でしたが、当時の名城の一つでした。
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道灌が「江戸城」を造る前の話です。
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平安時代には、現在の東京都内だけでも200以上の中世城館が在ったことが確認されています。
23区内だけでも100近く在りました。

中世時代の城のイメージは、相手を打ち倒すことだけを目的とするのではなく、自分の物となった領地を経済的に運営し政治的にも支配していくために、山城ではなく平地を一望できる平山城が丘陵に多く建てられるようになりました。
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平安末期に『江戸城』は歴史に登場します。
現在の皇居のある場所に、江戸の地を治めていた江戸氏の居館(初期の江戸城)が出来ましたが、鎌倉時代になって関東管領の反抗派として反乱に加わるも敗れ、江戸氏の衰退とともに、江戸城は廃墟と化しました。

室町中期、関東管領・扇谷上杉氏の執事として仕えた太田資清の子である資長(道灌)も親子して上杉氏に仕えた。
関東の覇権をめぐり、北関東の古河公方に対する江戸から川越に至る戦略防衛ラインとして、長禄元年(1457)資長(道灌)は江戸城を築城した。

長禄元年(1457)川越城は太田道真の縄張りで築かれ、時を同じくして、東方20キロの地にその子資長(道灌)は岩槻城を構築する。
長禄二年(1458)仏門に帰依して以降「道灌(どうかん)」の号を用いた。

江戸城は文明十八年(1486)主君 上杉定正に暗殺されるまで道灌の居城であった。

大田道灌(1432〜1486年)の築いた江戸城は、小田原攻め(1590年)の秀吉の前に降伏した領主北条氏直の所領地であったが、既に城自体は廃れて廃墟同然に近いものであり、秀吉の遠征軍の所領になった。

下図(1枚目)は大田道灌が江戸城を築いた頃の江戸周辺の地図を現したものです。

もっとも大きな相違は海岸線です。
現在の大手町あたりから芝にかけての部分は日比谷入江と呼ばれた入江状の海になっており、その先に江戸前島と呼ばれた半島状の土地がぶら下がるように突き出ていました。

河川の流れも現在とは大分異なっています。当時平川と呼ばれた神田川は、途中小石川を合流して日比谷入江に流れ込んでいました。
小石川は現在はありませんが、ほぼ白山通り沿いの低地を流れていたものと思われます。
また、石神井川は不忍池を中継点にして南北方向に流れ、直接江戸湾に流入していました。

続いて、2枚目について。
この地に道灌が築いた江戸城は、ほぼ現在の皇居東御苑に相当する場所で、北の丸の台地を背にして日比谷入江の海に臨んでいました。
守りを重視した築城術であったと推測されます。
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長禄元年(1457)大田道灌によって、江戸城の原型が作られました。
道灌の築いた城は規模も小さく、20〜30メートルの険しい崖の上に有り、崖下は深い濠になって、湧き水を流し込んでいた。
下の写真は、この水堀の遺構で『道灌濠』として現存しています。

崖の上の台地には、三重の外曲輪(そとくるわ)と子城、中城を持ち、水掘で囲まれた土の城でした。
ここに、江戸城本丸と呼ばれる「静勝軒」という風雅な望楼があって、場所も現在の本丸跡と考えられています。

2枚目の画像の出典元  ⇒こちらから

   

   

       

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