新田義貞の「鎌倉攻め」をルポしています。

新田義貞の先祖は?
 12世紀の中頃、京都での争いがもとで、東国へ来た源八幡太郎義家の孫【源義重】が
新田郡の土地を開拓して、「新田荘」を起した。
新田一族は、越後国(新潟県)、武蔵国(埼玉県)、下総国(千葉県)、相模国(神奈川県)にまで
及んでおり、これら全てを合わせると一万町歩(3千万坪)以上有った。
鎌倉幕府からも、実力の有る一族として注目されていた。
源八幡太郎義家の子孫は?
義家__義親__為義__義朝__頼朝__頼家
  |               |
  |_義国__義重(新田氏)   |_実朝
      |    (徳川氏)
      |
      |(足利氏)
      |_義康__義清(細川・仁木氏)
          |
          |_義兼__義純(畠山・岩松氏)
              |
              |_義胤(桃井氏) 
              |
              |_義氏__長氏(吉良・今川氏)
                  |
                  |_泰氏__家氏(斯波氏)
                      |
                      |_義顕(渋川氏)
                      |
                      |_頼氏__家時__貞氏__直義__直冬
                      |           |
                      |_公深(一色氏)   |_尊氏__義詮(足利将軍家)
                      |               |
                      |_頼茂(石塔氏)       |_基氏(古河公方家)
                                      
                                      
鎌倉幕府・倒幕のキッカケ
西暦1300年頃に生まれた新田義貞を取巻く環境は、鎌倉時代の末期で、
後醍醐天皇の倒幕計画の最中、西暦1333年、当時は、鎌倉幕府の一員として、
千早城に立て篭もる楠木正成を攻めていたが、鎌倉幕府(北条氏)のやリ方に
疑惑を抱くと共に、密かに後醍醐天皇の命令を受け、病と偽り、新田に返った。

元弘3年(1333)鎌倉幕府は新田氏に戦いの費用6万貫の重税を課した為、
幕府の使者・黒沼彦四郎入道を切った。
挙兵(旗挙げ)
元弘3年5月8日 新田の生品明神の社前で、幕府を倒す為の兵を挙げた。
鎌倉攻めのエピソード

元弘3年5月8日 生品明神で旗挙げ
元弘3年(1333)のこと。新田義貞は、幕府の使者、黒沼彦四郎入道を切り捨てた。そして同年5月8日、武運の神である生品明神の社前で、幕府を倒すための義挙(正義の戦い)の兵を挙げた。 写真右は、義貞挙兵の故事にちなんで行われる鏑矢祭
元弘3年5月9日 利根川を渡って武蔵国(埼玉県)に入る
元弘3年5月11日 小手指原の戦い
元弘3年5月12日 久米川の戦い(東村山市)
元弘3年5月15日 分倍河原の戦い(府中市)
武蔵の国(東京都府中市)の南西の地、
相模の国との境に、「多摩川」が有る。
 かっては渡し舟での交通で有る。
南下して来た新田軍と、鎌倉幕府軍は
正面衝突をする。

JR分倍河原駅前に、新田義貞の大きな
銅像が有る。
分倍河原古戦場跡は、市民の散歩道に
整備されている。

5月15日  関戸の戦い(多摩市)  
分倍河原の戦いで、勝利を収めた新田軍は、
多摩川を渡り、鎌倉幕府の北の守りの
砦「霞ノ関」が、次の戦いの場になった。

所謂、「関戸の戦い」になるわけである。

「多摩ニュータウン」として、開発が重視して
しまった為に、「関戸古戦場跡」を語る景色は
残されていない。

ただ一つ、地蔵様が残っている。

左手の柱の右側面に「関戸古戦場跡」を
語る表記があった。

元弘3年5月16日 相模国休憩(町田市)
現在の町田市成瀬2680番地辺り、
かっては、鞍掛山が有ったが、宅地開発され、
山頂まで住宅地だった。

遠くに、町田市内の高層ビルが良く見えた。

新田義貞が鎌倉攻めの時、
松に馬の鞍を掛けて一休みしたと、
伝えられる高札があった。

元弘3年5月17日 相模国野営(大和市)
現在の大和市下鶴間2127番地に、
新田一族ゆかりの家があり、
敷地に『新田義貞投剣の銅像』、
『黄金の霊水御宝水源御井戸』、
『鎌倉攻め行軍地図』、と石碑が有る。

矢倉往還(大山街道)沿いに、
大山神社の分社が有る。

元弘3年5月18日 藤沢で兵を三分割し、鎌倉包囲
須崎郷(山崎・上町屋・寺分)で、
北条軍は六万の軍勢で迎え撃つ,
一昼夜の間に,60回も戦い,
六万の北条軍は300に減った。

戦死者の霊を慰める為に建てられた
らしい五輪の塔が、天満宮から
南の原っぱ一帯に点在している。

攻防戦地の一つの「化粧坂」  
須崎郷から、破竹の勢いで
進んできた新田軍は、現在でも、
岩肌の剥き出ている坂道を攻め降りた。
海蔵寺に行く道は,このあと,平坦で,
鎌倉市内まで,何の障害物が無い。 
   
現在も、円覚寺、建長寺の前を通り,
巨福呂トンネルを抜けると、
すぐに鶴岡八幡宮で有る。
当時は,巨福呂切通しは険しかった
ものの,新田軍は,この切通しも制圧し、
怒涛のように市内に流れ込んだ。
元弘3年5月21日 稲村ヶ崎突破
新田義貞が刀を海中に投げ入れた場所
5月21日夜半の引き潮で、砂浜を歩いて、
鎌倉側に行き、奇襲をかけた。
鎌倉市内に入った新田義貞は、材木座海岸の
近くに有る「九品寺」に本陣をおいて、指揮を取った。
倒幕ののち、建武3年(1336)に戦死者の
霊を慰めるため九品寺を建立した。
元弘3年5月22日 鎌倉幕府滅亡
東勝寺は、北条氏の菩提寺だった、鎌倉幕府
最後の執権「北条高時」は、新田義貞の軍勢に
追い詰められて、裏山のやぐらで、自害した。

「北条高時腹切りやぐら」は、
祇園山ハイキングコースの
のぼり道の左手に有る。

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