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八百屋お七のゆかりの場所
撮影日 :  2022−4
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井原西鶴の代表作である『好色五人女』が本になり、それが、歌舞伎や浄瑠璃で大評判となり、江戸の市民ならずとも全国に広まったそうだ。
今風に言えば、16歳の少女が恋した男性に会いたさに自宅に火をつけて、すぐに消火されボヤ程度で終わった事件。
だが、取調べに当たったお奉行は、15歳なら放免しようとするが、少女は16歳だと言うので、市中引き回しの上、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられました。

事の真相を調べるべく、目黒の雅叙園の「お七の井戸」と、本駒込の吉祥寺の「お七と吉三郎の比翼塚」と、文京区白山の「円乗寺」と、文京区白山の「大円寺」を訪ねてきました。

★八百屋お七の話をかいつまんで話すと・・・・★
江戸前期の天和2年(1683)の大火で家が焼けた本郷の八百屋・市左衛門一家は、駒込の吉祥寺に、一時避難しました。
その時、娘のお七は寺小姓の吉三郎と恋に落ちました。
やがて、一家は再建された自宅に戻りましたが、吉三郎に会いたいお七は、再び火事になれば、と思いつめ、とうとう自宅に火をつけるに至ったのです。
その時、お七16歳、相手の吉三郎は18歳でした。
取り調べの際、不憫に思った奉行が「お前はまだ15であろう」と言ったのに対し、お七は、「私は、16でございます」と答えたということです。
その結果、江戸では、16歳以上の火付けは極刑である。・・・と言う理由から、お七は市中引き回しの上、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられました。

その後、恋の相手の吉三郎(吉三)は、出家して西運と名乗り、お七の菩提を弔いました。 ・・・雅叙園の井戸に説明文がある。

お七・吉三郎の比翼塚 (文京区・吉祥寺)  ・・・天和2年の大火の避難先で、吉三郎と知り合う。

円乗寺 ・・・本郷の八百屋・市左衛門一家の菩提寺。 住職と歌舞伎役者と近所の方が270回忌で墓を建てた。

大円寺 ・・・天和2年の江戸の大火の火元のお寺。 大円寺はさほど被害は少なかった。
八百屋お七を供養するために1719年に渡辺九兵衛という人が寄進したのがほうろく地蔵です。
現在では、首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として知られています。

☆天和の大火とは☆
天和の大火(てんなのたいか)は、正午頃に江戸・駒込の大円寺(現在の東京都文京区向丘一丁目)から出火し、隣の同心屋敷に延焼し、本郷方面に燃え広がり、加賀藩前田家の上屋敷も炎上しました。
その後、本郷から湯島・神田方面から、柳原の土手沿いに東に向かい、浅草橋門も焼失し、隅田川を飛び越えて、回向院に飛び火します。
そして、回向院もまもなく焼失、さらに隅田川沿いに南下して、霊厳寺、富岡八幡宮も焼失させて、ようやく翌日の午前5時頃に鎮火しました。
この大火によって、焼失した大名屋敷は73、旗本屋敷166、寺社95にも及び、死者は最大3500名余と言われ、江戸の十大火事の一つとされています。
これにより、両国橋も焼け、本所の開発は中止となり、深川芭蕉庵も焼けて、俳聖・松尾芭蕉は水に潜ってかろうじて助かりました。
また、井原西鶴著『好色五人女』でも取り上げられ、その登場人物で八百屋の娘お七の名を取って、「お七火事」とも称されています。