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現在は、都市化の波で山野は開発されているが、鎌倉時代に遡れば、鎌倉から高崎に行く道が「上道」、鎌倉から宇都宮に行く道が「中道」、鎌倉から松戸に行く道が「下道」と言われていた。 東京都府中市の国府(国分寺の有る所)から鎌倉幕府の有る鎌倉までの間は、「上道」の他に、稲城市の多摩丘陵から川崎市の麻生の丘陵を抜ける「山道」が有り、まさに人の住む里ではなく、まさに山間部で有った。 ところで、『王禅寺』は、平安時代の921年(延喜21年)、高野山の無空上人によって開山され東国鎮護の勅願寺となった。 鎌倉幕府が滅んだ1333年(元弘3年)には、新田義貞軍によって焼き尽くされたが、1370年(建徳元/応安3年)金沢称名寺(京浜急行の金沢文庫)の等海上人によって再興され、「関東の高野山」とも呼ばれている。 ちなみに、地名に「王禅寺が付いている」領域を計測して見ると、東西2.4キロ、南北1.6キロも有る。 |