D90が観た画像  d90-13128

撮影地 長野県上田市別所温泉
撮影日時 2013−8−9 9:59〜17:09
作品のタイトル 信州の鎌倉・別所温泉散策
作品の概要 まずは「信州の鎌倉」とはなんぞや?
----------------------------------
別所温泉は景行天皇の時代(西暦370〜385年)、日本武尊の東征の折りに発見されたといわれています。
または平安時代(794年〜1185年)中期の女流作家、清少納言によって書かれた「枕草子」にある「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節の中の「七久里の湯」が起源ではないかという説もあります。
---------------------------------
12世紀に入ると別所は木曽義仲(源 義仲)が信州を平定するために派遣した軍勢によって火を放たれ、多くの寺院建築が灰になってしまいましたが、大悲殿ならびに安楽寺の八角三重の塔だけは焼失をまぬがれました。
---------------------------------
どうして塩田平が信州の鎌倉と言われるかといえば、鎌倉時代に、頼朝が、この塩田平(信濃国小県郡塩田庄)に地頭を任命した。
任命されたのは、彼の信頼が最もあつかった惟宗忠久(後の島津忠久)であり、全国的にみても、最も早い任命であることをみても、塩田地方を、頼朝が重視してことが想像できる。

鎌倉幕府の将軍亡き後、執権の北条氏も頼朝と同じように信濃国をたいへん重要視し、信濃国守護を塩田平に置いた(その時の守護は北条重時、北条氏で宗家(本家)に次ぐ位の家柄)。
重時が信濃守護となったころ、塩田は信濃の政治・文化の一大中心であった。
塩田北条氏は、ここを本拠とし、三代57年、元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡するとき、一族あげて奮戦、宗家のために殉じるまで続いた。
-----------------------------------
鎌倉時代に入り、焼失した別所の寺院は源頼朝、次いでに塩田北条氏によって再建されることとなり、別所温泉を含む塩田平には、鎌倉、室町時代からの古刹が多いことから信州の鎌倉と言われるようになりました。
-----------------------------------
その後、この塩田地方は、武田信玄が重要視したが、天正10年(1582)武田氏が滅亡して後、小県郡一円は真田氏の領有地となり、その翌年の天正11年、現在の上田城を築いた真田昌幸(幸村の父)は、城を中心として上田城下町をつくり、上田城下が小県郡の政治・経済の中心となりました。
-----------------------------------
今から400年前、鎌倉時代から、小県地方の政治・文化の中心であった塩田城と塩田城下町は初めてその機能を失い、一農村地帯と変っていきました。
-----------------------------------
こうして、この塩田平とその周辺には、20にあまる国宝・重文・県宝級の文化財が、数百年の風雪に耐えてほぼ完全に保存されており、地方ではまれにみる”文化財の宝庫”と言われています。

さて、本題の「別所温泉散策」ですが、・・・・・
---------------------------------------
別所温泉駅では着物姿の駅長さんに切符を渡し、道すがら「樹高5メートルほどの姫林檎」に出会います・・・直径4センチほどの実が鈴なりでした。
古刹の北向観音、映画で有名な「愛染かつら」の大木・・・・
昼食は「馬肉うどん」・・・珍味でした。
国宝・八角三重塔のある安楽寺、古刹の常楽寺と、最後は、外湯の一つ「あいそめの湯」で暑かった一日の汗を洗い流して、下着を着替えました。

別所温泉散策に用いた「別所温泉マップ」は、ここをクリックして下さい。