D90が観た画像  d90-15011

撮影地 東京都世田谷区三軒茶屋 
撮影日時 2014−12−19
作品のタイトル 昭和の匂い・・三軒茶屋
作品の概要 三軒茶屋の地名は、江戸時代に大山道の本道(今の世田谷通り)と近道(今の国道246)の分岐点に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋があった事に由来します。
当時は神奈川県丹沢の大山にある阿夫利神社へ雨乞いに行く大山詣が流行し、江戸時代後期の文化文政の頃(1804 〜1830)には「三軒茶屋」という呼称が一般的になっていたそうです。

明治30年代になると、三軒茶屋一帯(今の世田谷公園のあたり)に軍事施設がつくられ軍関係者を相手にした商店が立ち並び、商店街が自然発生的に形成されていきました。
明治40年には、玉電(玉川電気鉄道)が渋谷⇔玉川に開通、三軒茶屋に電車が走り出しました。
関東大震災後、都心で家を失った人達が、玉電が通る交通便利な三軒茶屋に多く流入し、人口が急増し商店街も急速に発展してきました。
太平洋戦争の東京大空襲で、軍事施設のあった三軒茶屋周辺も罹災し、終戦後、焼け跡になった商店街にバラック建ての商店が並びはじめ、復興がはじまります。
昭和25年には仲見世商店街が建設されます。
朝鮮戦争を期に三軒茶屋も急速に発展をとげますが、道路の整備がなされぬまま商店やアパートが急増し、いまだに残る ごちゃごちゃした町並みが形成されていきました。

さて、本題の「飲食店街」ですが、交番の前を通る「すずらん通」は道幅2m、長さ70mの両側に、薬局や飲み屋が40軒ほど軒を並べていますが、おまわりさんが近くにいる為、雰囲気の明るい横丁です。

しかし、渋谷から電車で5分、地下駅の三軒茶屋を地上に出ると、国道246号・高架の首都高と世田谷通りに挟まれた『三角地帯』が目の前に広がります。
この三角地帯に地権者が50人以上いるとか・・・ましてや遠方に住んでいる。
都市開発に手の付けられない「バラック時代の置き土産」には、100店舗ほどの飲み屋がひしめき、雰囲気の明るい横丁もあれば、道幅1m、迷路のように入り組んでいる場所も有り、一人で歩くのも怖いです。