江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。
最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)であり、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。
新大橋は何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超える。
幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に延享元年(1744年)には存続を許された。
その後、明治18年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。
竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。新大橋は関東大震災の際に隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中で唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称される。
戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、昭和52年(1977年)に現在の橋に架け替えられた。
東京都内の交通量緩和の為に、首都高速が隅田川沿いに走っているが、両国橋辺りは左岸を通っているが新大橋までの間に隅田川を跨いで大きくカーブして右岸に場所を変えている。 |