D90が観た画像  d90-15238

撮影地 東京都中央区  隅田川界隈
撮影日時 2015−10−9
作品のタイトル 隅田川夢現(ゆめうつつ) ・・ 永代橋之景
作品の概要 永代橋は、元禄11年(1698)に上野寛永寺本堂の材木を使い深川と日本橋を結ぶ橋として架けられました。
江戸の街が隅田川(当時は大川)を越えるまで広がり、「八百八町」が形成された頃です。
時の将軍綱吉の50歳を記念して架橋され、近隣の地名にちなんで「永代」と名付けられた(50歳を祝して永代という説もある)。

橋の長さは110間で、橋の下を船が航行するため、桁下は大潮のときでも3メートル以上確保されていたという巨大な木橋であったとか。
「江戸中を眼下にあり」と評される眺望で、富士山や筑波山、伊豆・箱根、安房地方まで見ることができたそうです。
永代橋は歴史的な事件に登場しております。赤穂浪士が討ち入りの帰りに渡った橋として有名で、橋の近くには赤穂義士休息地の碑が立っています。また文化4年(1807)には富岡八幡祭礼の多くの見物人により、橋の一部が落ち多くの死者がでたという大惨事がありました。
架橋から十数年後に橋の損傷が激しくなり、江戸幕府は、同時期に架設した新大橋だけを架け替えて、永代橋を取り壊す決定を行った。
これに驚いた地元では、町営の橋として引き取るが、海水や洪水による損傷、漂流した大型船が衝突する事故、火事による類焼など絶えず補修工事に従事していた。
町の費用だけではまかなえず、期限付きで渡橋銭を徴収することもあった。そのような状況が続くなか、文化4年(1807)に日本史上最大といわれる落橋事故が発生する。
江戸三大祭のひとつ、深川富岡八幡宮の祭礼が30年ぶりに開催された8月19日、永代橋が崩れ落ちたのである。
久しぶりの祭礼に将軍家が船で繰り出したため、橋を通行止めにしていたが、解除されるや大群衆が一斉に渡り崩壊してしまったのである。
死者・行方不明者は1000人を超えたといわれている。

そして、明治30年(1897)に現在地に移設され、木橋からスチールトラス橋に生まれ変わった。
道路橋としては初となる鋼材を使用した橋であったが、床組が木造だったために関東大震災の際、近隣家屋からの飛び火や橋に持ち込まれた家財道具の延焼、船舶火災によって焼失してしまうのだった。

その後、大正15年(1926)12月に現在の橋に架替えられました。
その姿は、上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重量感にあふれております。

   

   

1999年のホームページ作成時からの作品集です。
		画面表示のためのツールも技術習得の為にいろいろと取り込み、
		数多くの技法を習得し、シリーズ作品集として、管理しております。