D90が観た画像  d90-16045

撮影地 東京都台東区浅草
撮影日時 2016−3−13
作品のタイトル 花街・吉原の夜景
作品の概要 江戸時代の「吉原」・・・映画やテレビドラマでお目にかかる『遊郭』・・その跡地が、現在は「日本一の風俗街」だと言われている。
・・・・ どんな所か一度見て見たかった。 ・・・・

地図で探すが「吉原」なんて何処にも無い。
地下鉄の三ノ輪駅から歩くこと10分、千束3丁目と千束4丁目辺り(200m×380m四方のエリア)に、約150軒のソープランドが密集していた。
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ところで・・・皆さんと『吉原』について学習しましょう。
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吉原遊廓(よしわらゆうかく)とは、江戸幕府によって公認された遊廓である。初めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原後者を新吉原と呼んだ。

周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる大溝があり、新吉原初期の頃には幅5間(約9メートル)、江戸末期から明治初期には縮小され幅2間(約3.6メートル)、明治36年頃には3尺(約90cm)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されていた。
遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列があった。

大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。
江戸前期の一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことが出来るようになったという。

1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可された。
その結果、吉原遊廓は敷地面積は二万坪余り、最盛期で「数千人の女郎(遊女)がいた」とされ、最大級の規模を誇った公娼街である。

また、しばしば大火に見舞われた。主な大火は1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、1862年、1864年、1866年である。
近代以降も1911年4月9日に大火が発生した(「吉原大火」)。
また、関東大震災、東京大空襲でもほぼ全焼し、多くの犠牲者を出したが、そのたびに不死鳥の如く復活した。

第二次世界大戦後、GHQの指令により公娼廃止となり、営業形態も民主化され、特殊飲食店街、いわゆる赤線となった。

吉原を歴史的な名所として位置付け、山谷堀、大門などを復元し、観光名所として復活させようという意見が出ているとか。
現在は、道路の両サイドに門柱が立ち「大門」「京町一丁目」「揚屋町」「江戸町一丁目」などが復元されていた。

吉原神社の境内に、「吉原今昔図」なる地図が有った。
昔も今も、土地の大きさや格子模様の区割りは同じで有り、ソープランド1店あたり20名のコンパニオンを抱えているとしても、3000人しかいない。
飛び込みで店に入ると、3〜4時間待ちだとか。
通な人は、インターネットや風俗雑誌でプロフィールを確認し、電話で出勤日を確認し、日時の予約を入れ、タクシーや店の車で送迎してもらうそうだ。

戦後70年も経てば、住宅街も様変わりしているが、所々に時代に取り残された建物が有った。
もう一つ、気がかりなのは、「喫茶店」風な店、横浜や歌舞伎町で見た「無料案内所」だったかも。
吉原にはコンビニ店が無い。 喉が渇いても、うかつに「喫茶店」に入らなくて正解だったかも。

   

   

    過去7年間、今日のお薦めの一品として、作成したものをジャンル別に紹介しています。   2009-9-19から、Nikonカメラの『D90』を愛機として、撮影を開始しました。   1999年のホームページ作成時からの作品集です。
画面表示のためのツールも技術習得の為にいろいろと取り込み、
数多くの技法を習得し、シリーズ作品集として、管理しております。