D90が観た画像  d90-16047

撮影地 東京都中央区日本橋人形町
撮影日時 2016−3−17
作品のタイトル 花街・日本橋人形町の夜景
作品の概要 江戸時代初期のお話です。
---------------------------------------
徳川家康が江戸を整備し、日本の政治経済の中心地とすると、諸国から男女問わずあらゆる人たちが成功を夢見てやって来た。
特に東海道を通って、関西から大量に人がやって来たので、日本橋の近くには堺町だの和泉町だの浪花町だの、さらに住吉町、大坂町、伊勢町などなど、多くの関西系の地名が残っています。

当然、遊女も、伏見橦木町や奈良木辻町といった有名な遊女街から大挙して江戸にやってきました。
なかでも静岡県富士市の元吉原の女郎たちがもっとも美人だったそうです。

400年前の江戸開府当初は、麹町、鎌倉河岸、大橋内柳町の3つが比較的大きな売春街でした。
もちろん、幕府は取り締まるため、摘発と摘発逃れのいたちごっこが続いていたそうです。
ある時、柳町で娼家を経営していた庄司甚右衛門が中心となって、きちんとした遊郭を作ろうと幕府に働きかけ、それで幕府は元和3年(1617)に許可を出し、市内の傾城地(売春街)をまとめ、当時、荒れ地だった場所(日本橋人形町)に遊郭を作らせた。

甚右衛門は、「風俗営業の独占権」を得ることができた。
営業開始は元和4年11月、これが幕府公認の遊郭・吉原の誕生です。
----------------------------------------
江戸八百八町の発展と共に、人形町の近くに大名屋敷が移転して来た為、風紀上よろしくないと、38年間も独占営業の続いた吉原は、明暦2年(1656)秋、浅草日本堤に移れと、幕府から命令されます。
やむなく日本堤への移転を決めたところ、翌年の正月に明暦の大火(振り袖火事)があって「吉原遊郭(元吉原)」は全焼した。
「吉原遊郭」の移転は迅速に進み、明暦3年、浅草日本堤(現在の千束3丁目・4丁目)に「新吉原遊郭」が開業します。
-----------------------------------
遊郭は無くなっても、風俗営業は無くならず、花街の範囲は日本橋人形町、日本橋牡蠣町、日本橋浜町と広がっていた。
関東大震災で、ふたたび花街は壊滅するが、不死鳥の如く立直り、最盛期には、芸妓 置屋278軒、芸妓713人、料亭・待合あわせて313軒だったとか。

今回、メイン道路の「甘酒横丁」を小網神社から浜町公園までと、脇道で有る「芸者通り」を探索してみたら、関東大震災後に建てられた建物が、東京大空襲の被害を受けなかったため、戦災を免れた時代物の建物が、所々にたくさん残っていました。

   

   

    過去7年間、今日のお薦めの一品として、作成したものをジャンル別に紹介しています。   2009-9-19から、Nikonカメラの『D90』を愛機として、撮影を開始しました。   1999年のホームページ作成時からの作品集です。
画面表示のためのツールも技術習得の為にいろいろと取り込み、
数多くの技法を習得し、シリーズ作品集として、管理しております。