東京都の西部は開発が著しく進みました。
東京オリンピックを契機に、交通量の増えた「青梅街道」のバイパスとして「新青梅街道」が計画され、新宿区を基点に、西多摩郡瑞穂町まで青梅街道の北側を走る事になりました。
変りゆく郷土の為にと、地主の山崎家から土地2600平方メートルの寄贈を受け、『中野区立歴史民俗資料館』が1989年にオープンしました。
さて、話しは、江戸時代の中期まで遡ります。
江戸時代の「江古田村」は、現在の江古田、松ヶ丘、丸山、沼袋の一帯をカバーしていた。
代官支配地と48人の同心の領地が入り組み、ややこしいので、江戸の中期には3組に分けられ、組ごとに名主以下の村役人がおかれていた。
3つの名主は、「庄左衛門組」と「孫右衛門家」と「山崎家・喜兵衛組」。
山崎家は醤油醸造業を営んでいたそうです。「歴史民俗資料館に続く敷地」には、都内では珍しいくらいの大木で中野区指定文化財となっている推定樹齢500年のしいの木があります。
地元では、「醤油屋のしいの木」と呼ばれ、多くの人に親しまれてきました。
夜間ですので、大木の椎の全貌はわかりません。
戦災の炎で焼け爛れた幹の部分は70年経っても樹皮が着いていませんが、上部は枝葉も勢いが良かったです。
もう一本は、山崎家の子孫の敷地の中に、塀の外から見える部分に「内部が空洞のなっている椎」が有りました。
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戦時中、この付近には高射砲陣地があったため、かなり激しい米軍の攻撃を受けています。 |