D90が観た画像  edojyo-020

撮影地 東京都新宿区 四ッ谷駅付近
撮影日時 2016−9−17
作品のタイトル 江戸城の外濠・・真田濠(四谷濠)
作品の概要 真田濠は、四谷見附橋から喰違橋までの間ですが、この区間は水が一滴も無く、お濠の景色では有りません。
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お濠は、時の為政者によって、造られたり壊されたり・・・。
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三代将軍家光の時代・寛永13年(1636)、「江戸城外濠普請」により、「赤坂溜池」と「市ヶ谷濠」を繋ぐように台地部を開削して真田濠は造られた。
四谷駅のあたりは『四谷台地の尾根道』であり、江戸城の外濠の中では最も標高の高い場所になります。
この時代には、江戸の街の水道源として、40キロメートルも離れた多摩川から、『玉川上水』が引かれており、その余水を『四谷台地の尾根道上』を通して、お濠の中に流し込み、お濠の水量を保ったそうです。
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明治の世になり、為政者にとって、外敵からの脅威も無い外濠は無用の長物、明治27年の鉄道開通までに出た工事残土の捨て場として、真田濠は埋め立て地に選ばれる。
明治32年(1899)に新宿・淀橋浄水場が完成し、新宿から四谷に至る「玉川上水路」は不要となり、水路は閉じられ、「真田濠」は空濠となる。

その後、関東大震災および東京大空襲で発生した瓦礫(がれき)が投棄されて埋まってしまった。
その後、上智大学が費用を出して埋め立てを行ない、運動グランドを造り、東京都から20年間無償貸与を受けたとか。
現在は、南側の半分は上智大学の運動グランド、北側は、JR東日本および地下鉄(東京メトロ丸ノ内線)・四ッ谷駅の敷地になっている。

「四谷見附」と「喰違見附」
ともに建物は残っていませんが、JR四ッ谷駅の麹町口に、四谷見附の石垣が残っています。
土手の遊歩道の終点が喰違見附の門の跡、お濠の対岸の紀州徳川家の上屋敷から道路を見ると、現在はS字カーブになっていますが、江戸時代にはクランク状態(喰い違い)になっていたとか。

   

   

   

       

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