小田原北条氏の時代に、小田原から平塚(中原地区)を通り、江戸まで、本格的に整備をし、道を切り開いて作られた比較的直線区間が多い「中原街道」は、徳川家康が関東に入国する際に用いられた街道です。
この「中原街道の行きつく先が、桜田門」で、東海道が整備されるまでの重要な街道でした。桜田門の造り方は、外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸(現在の皇居外苑)防御のため異例の大きさで造られています。
建設されたのは寛永年間(1624〜1644)ですが、関東大震災で破損したため、現存する桜田門は、寛文三年(1663)に再建された物を模して復元されています。
桜田門が後世まで知られる事件が、「万延元年(1860)3月3日、大雪の朝、井伊直弼が、外桜田門を目前にして水戸の藩士らに襲撃され、暗殺された」 |