D90が観た画像  edojyo-066

撮影地 東京都千代田区
撮影日時 2016−10−4
作品のタイトル 江戸城の遺構・・大手三之門跡
作品の概要 大正8年(1919)に宮内省諸施設を建設する際に、桔梗門西側(蛤濠)から天神濠に至る二の丸と三の丸の間の天神濠約3.9ヘクタールが埋められたので、大手三之門前の石垣沿いの濠も下乗橋も現在は存在しない。
「同心番所」は、現在、門内に移設されているが、本来は橋の手前広場にあったものです。

「大手三之門」は、寛永13年(1635)に、伊勢津藩主の藤堂高次が枡形の三方を多聞櫓で囲む江戸城唯一の門を築いた。
大手門から駕籠で入城した大名は、第二の関門である大手三之門橋前で降りた事により下乗橋と呼ばれる様になった。
下乗橋から城門内へは誰でも徒歩で進み、従者もさらに小人数になった。
馬や残された供連は、そのまま主人の下城まで広場で待つのである。

この下乗門を駕籠に乗ったまま通れるのは、勅使と『尾張・紀伊・水戸の御三家』のみである。
なお、田安・清水・一橋の御三卿は、実質の大名ではないので「平川門」から登城する決まりであった。

下乗門の手前にある「同心番所」には警護の与力・同心が詰め、主として登城する大名の供の監視にあたっていた。
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同心とは、幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務・警備の勤務をおこなう下級役人の総称である。
大手三之門の警備は、鉄砲25、弓25で、鉄砲百人組の与力・同心(甲賀組・根来組・伊賀組)が受け持った。

余談ですが・・・・
下乗門前には、「下馬」の高札が立てられており、家臣たちはここで待っている間、他家の家臣と情報交換をしていたため、「下馬評」という語源になったそうです。

   

   

       

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