D90が観た画像  edojyo-070

撮影地 東京都千代田区
撮影日時 2016−10−4
作品のタイトル 江戸城の遺構・・天守閣跡
作品の概要 江戸城の天守閣は、家康、秀忠、家光と過去3度建て替えを行なった。。

家光の死後、4代将軍家綱の時代、明暦3年(1657)、本郷から出火した火災は、二昼夜におよび江戸の大部分を焼失した「振袖火事」で、焼失した大名屋敷は500軒、旗本屋敷770軒、町屋400町あまりにおよび、死者は10万人以上だった。
江戸城も天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸が焼け落ち、無事だったのは「西の丸」だけだった。

徳川幕府未曾有の災害という危機の陣頭指揮を執ったのが徳川家光の異母弟の保科正之だ。

被災者救援と江戸の復興に最大の努力を払い、火事による大被害を招いた「江戸の町並み」の大改革行い、現在の広い道路と防災広場を念頭に置き、大火による延焼を食い止める町並みの基礎作りを断行した。

4度目の天守閣再建に拍車が掛かり、加賀藩前田家の普請で天守の石垣までは出来上がったものの、時の老中・会津藩主の保科正之が異議を申し立て天守再建計画は中止となり、以来360年近く天守閣の無い日々を過ごす。

江戸城の「天守台」を初めて見る人には、白くてきれいな石垣だと思う。
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実は、「振袖火事」で燃えた「中雀門の石垣」や「汐見坂門の石垣」のようにまっ黒になり、ひび割れもしたのだ。
加賀藩前田家の石垣普請では、焼けた石垣を取り壊し、瀬戸内海や紀伊半島から切り出した「白い御影石」を江戸まで運び、天守台を造成したのだ。
天守台の石垣の東面には、文久3年(1863)の大火「本丸御殿炎上の痕跡」を現代に伝える。

出典:洋泉社発行 「江戸大図鑑」 ¥838円+税
            とじ込み付録「江戸城完全ガイド」

   

   

       

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