D90が観た画像  d90-16241

撮影地 神奈川県鎌倉市 護良親王の墓
撮影日時 2016−12−10
作品のタイトル 護良親王の墓の紅葉
作品の概要 瑞泉寺からの帰り道、前を歩く二人連れが「近くに紅葉の名所があるんだ・・」
と、脇道に入った。
私もならばと、後を追った。
着いた先は、「護良親王( もりながしんのう)のお墓」。
奥を覗くと、石階段がそびえたっている。
足元を見ながら、3ヶ所の石段をせっせと登る。
160段ほど登って鉄格子のところまで着いた。
紅葉は良かったが・・・・、
帰りは怖かった。
踏みしろ幅の狭い石段、上から見ると垂直に近い勾配。
一段でも踏み外せば、下まで転げ落ちる恐怖である。
救急車も呼べず、明日の新聞に・・・無謀なハイカーとでも載るかも。

ところで、『護良親王』とは・・・・?
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父は後醍醐天皇、母は源師親の娘で第三皇子、妃は北畠親房の娘。
時の幕府への反感をもつ後醍醐天皇が即位。
後宇田法皇に代わり、天皇による「親政」を開始する。
1324年(正中元年)、後醍醐天皇による討幕計画が発覚し(「正中の変」)、
後醍醐天皇はその後も討幕を企て、1331年(元弘元年)にはその計画が発覚し(「元弘の変」)で、後醍醐天皇は隠岐に流された。
その後、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、足利尊氏や新田義貞などが味方したこともあって、1333年(元弘3年)、鎌倉幕府を滅ぼし、「建武の新政」を開始する。
しかし、足利尊氏が裏切ったことによって、後醍醐政権は崩壊し、朝廷も南北(大覚寺統と持明院統)に分裂してしまう。
足利尊氏は、室町幕府を開き、自らが擁立した北朝の光明天皇より征夷大将軍に任ぜられている。
一方、後醍醐天皇は吉野に退いて南朝を成立させ、北朝と対立し、以後、1392年まで南北朝の時代が続くこととなる。
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後醍醐天皇の第三皇子は、鎌倉に幽閉され悲運の最期を遂げた。
「鎌倉宮の祭神護良親王」
東慶寺第五世の用堂尼は、後醍醐天皇の皇女。
護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったのだと謂れている。
江戸時代には、護良親王の土牢や墓、理智光寺は東慶寺に管理されていた。
東慶寺には、護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られている。

   

   

    2009-9-19から、Nikonカメラの『D90』を愛機として、撮影を開始しました。   1999年のホームページ作成時からの作品集です。
画面表示のためのツールも技術習得の為にいろいろと取り込み、
数多くの技法を習得し、シリーズ作品集として、管理しております。