武士社会において仇討ちの模範とされていたものは、「赤穂浪士の討ち入り」と「伊賀越えの仇討ち」と「曾我兄弟の仇討ち」が、日本三大仇討ちである。 曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193−6−28)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。
湘南や静岡には、曽我兄弟にまつわる遺跡が数多く残っており、その数15あまりとか。
墓だと称する供養塔だけでも、知足寺をはじめ、曽我の城前寺、箱根の二子山麓および関所の近くなど、神奈川県内に4カ所を数える。
では、なぜ、「知足寺」かと言えば・・・・
鎌倉時代、源頼朝の家人で、二宮の領主・二宮弥太郎朝定の妻「花月尼(かげつに)」が、夫および兄弟(曽我十郎と曽我五郎)の冥福を祈念して開基したお寺です。
墓碑は曽我兄弟のものといわれ、一番奥の高さ60cmぐらいのものが五郎、次の90cm余りのものが十郎、ついで花月尼、二宮弥太郎朝定と並んでいる。
これに向かいあって、寛政年間(1789〜1801年)建立の「花月法尼碑」があり、花月尼の故事が語られている。
そして、もう一つの碑は、昭和54年9月、浩宮(現皇太子)が知足寺にお成りになり曽我兄弟の墓を見学。 |