地域の伝承によると、その起源は鎌倉時代、あるいは平安時代まで遡るといわれている。
幕末から明治時代初期の太鼓台は、小さく飾りも貧弱だった。
しかし、別子銅山の開坑により産業が発展し、地域経済が発達するにつれて太鼓台を所有する複数地域の対抗意識も高まり、明治中期以降から急速に大型化し、明治時代中期から昭和時代初期の太鼓台は、現在の太鼓台と同じくらいの大きさになり、飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、また天幕も膨らみを持ったものを付けるようになった。
現在では、瀬戸内沿岸にある数多い太鼓台のなかでも、150人余りの男衆で差し上げられ、澄んだ秋空に舞う新居浜太鼓台の姿は、その豪華絢爛さ、勇壮華麗なことから「男祭り」の異名をもち、毎年約10万人の観衆を酔わせて止まない魅力ある祭りとして、全国的にも知られるようになった。太鼓台は、元は神輿太鼓とも呼ばれていて、高さ5.5メートル、長さ12メートル、重さ約3トン(3000キロ)にもなる巨大なもので、胴体は金糸によって龍や虎などの絢爛豪華な刺繍、布団締めや継幕で飾られ、壮麗を極めている。
この巨大な太鼓台は新居浜市内に53台あり、1台を150人ほどの男衆が担ぎ、市内を練り歩き、時には、因縁の集団により、喧嘩騒動も起きるとか。
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現地・新居浜での喧嘩騒動 ⇒ その1 喧嘩騒動 ⇒ その2 |