D90が観た画像  d90-18058

東京都世田谷区瀬田4−41−21 旧小坂邸
撮影日 :  2018−2−18
旧小坂邸のお雛さま
「東京でお雛さまを展示」で検索したら、世田谷区で4ヶ所がヒットした。
世田谷といえば、江戸時代末期には42の村があり、明治政府の地方制度改革により、順次統合され、明治22年(1889)の市制町村制により東京府荏原郡に世田谷村、松沢村、駒沢村、玉川村、神奈川県に千歳村、砧村が出来た。
この頃の農地の大部分は畑であり、水田は用水に沿った地域にわずかに存在するだけだった。

一方、東京市の大規模な土木・建築事業には大量の砂利が必要だったため、多摩川の砂利を供給する輸送機関として、明治40年(1907)に渋谷〜二子玉川間で玉川電車(現田園都市線)が開通した。

大正から昭和初期にかけて、多摩川に平行している国分寺崖線には、岡本から上野毛にかけて政治家・実業家などの別荘や邸宅が構えられるようになり、現在でもその名残をとどめている。

大正12年(1923)の関東大震災では、世田谷においては火災の発生はなく、死者・行方不明者8人と一部の建物被害に留まった。
東京大空襲での被害は、住宅戸数の2割程度(約1万1600戸)の被害のため、別荘住宅や富豪・豪農の建物もたくさん残った。
そして、世田谷が大きく進化するのは、前回の東京オリンピックによる「高速道路、幹線道路、オリンピック会場整備」である。

さて、お雛さまの話に戻ろう。
豪商・豪農の子孫から世田谷区に寄贈された物はどれもすばらしい物である。
別荘して建てられて、小坂氏から寄贈された建物は、文化財として一般公開されており、「雛まつり」が近づくと、吊るしびな飾りと一緒に、人間国宝の「原米州」作の七段飾りがお座敷に展示されている。
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