D90が観た画像  d90-18115

神奈川県鎌倉市大町1−15−1
撮影日 :  2018−3−27
鎌倉・妙本寺のさくら
総門を抜け、長く緩やかな参道を登ると、朱の二天門を潜りすぐ左側に大きなソメイヨシノが2本ある。
大きな方は、樹高10メートル、枝張り18メートル、幹周り230センチで、日蓮聖人像に春爛漫を祝している。
例年だと、ソメイヨシノの後に、海棠(カイドウ)とシダレザクラが追っ駆けて咲くのだが、今年は3つの花が並んで、鎌倉最大級の木造仏堂建築、祖師堂と一緒にコラボレーションしている。

今でこそ「鎌倉観光名所」の1つですが、生い立ちには悲しい物語が有り、ミステリーゾーンも存在する。
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元々この地には、源頼朝の側近だった比企能員(ひきよしかず)の屋敷があった。
比企一族は、初代将軍源頼朝公の乳母を務めた一族であり、党首比企能員は頼朝公の右腕として活躍した武将である。
比企能員夫妻は、やがては「2代将軍 頼家公」の乳母を務め、また、娘の若狭局は、頼家公の側室として嫡男を授かるに至る。
しかし、3代将軍をめぐる北条時政の謀略によって、建仁3年(1203)9月2日、比企一族は滅ぼされた。

この政治闘争の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが、後に、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本。
能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まり。
日朗(妙本寺の見解では日蓮聖人)を開山として、文応元年(1260)に創建された。
9月12日は、日蓮聖人龍口法難のご聖日にあたるために、普段非公開の祖師堂にて、祖師堂安置の日蓮聖人の特別開帳を行うそうだ。

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2代将軍源頼家の側室であった若狭局(比企能員の娘)は、家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられている。
その井戸と伝えられているのが妙本寺の鎮守蛇苦止明神の前にある「蛇苦止ノ井」(蛇形井)。

ミステリーは、『吾妻鏡』文応元年(1260)十月小の条に記録が残されている。
たたりが来ると困るので転記はしませんが、怖いもの知らずの方は ⇒ ここをクリック

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