D90が観た画像  d90-18145

神奈川県鎌倉市扇ヶ谷  英勝寺
撮影日 :  2018−4−28
尼寺・英勝寺の「歴史的建造物」
古都・鎌倉と言えば、もっとも脚光を浴びるのが・・・源頼朝が幕府を置いた鎌倉時代である。
しかし、もっと前の時代に・・・平安時代の事である。
源頼朝の父・源義朝の屋敷が、現在の『英勝寺』の土地でした。
当時は、亀ヶ谷、扇ヶ谷などと呼ばれている。
しかし鎌倉時代には寿福寺に編入されてしまった。

鎌倉幕府が滅ぶと、鎌倉は足利氏の支配地となり、扇ヶ谷は補佐役の上杉氏が支配することになった。
上杉氏の家臣である太田道灌もこの上杉屋敷の一角に居を構えた。
しかし1486年、扇谷、山内の両上杉氏の内部抗争に巻き込まれ、太田道灌は暗殺されて、太田家は文明18年(1486)に没落した。

その後、戦国時代には、京に都が置かれたため、鎌倉は時代から忘れ去られて行った。
それから100年後、関東の支配者である徳川家康は、自分が源氏の血筋であることを理由に、鎌倉の復興に尽力する。
また没落した関東の名家の救済にも力を入れ、太田道灌五代の孫「太田重政」も鎌倉に招かれる。
その妹のお八が江戸城に参上し、徳川家康の夫人になる。

徳川家康の寵愛を受けたお八は、お梶と名を改め、戦場に同行した。
すると家康は連戦連勝し、関ヶ原の勝利を祝い、お勝と名を賜る。
お勝は、大阪冬の陣、夏の陣にも同伴していく。
お勝は女児をもうけるが4歳で亡くなり、悲しみに沈むお勝の方に水戸頼房の養育を命じられた。

徳川家康の逝去後、お勝は出家し、英勝院と名を改めた。
その後、英勝寺を開き、寛永13年(1636)に仏殿が完成。
翌年には水戸頼房の娘の小良姫が住職として入寺した。

英勝院が逝去したのち、徳川家光の配慮で、寺領は加増されて420石となり、祠堂や山門、鐘楼などが加わった。
以来英勝寺は水戸家の御寺として370余年の尼寺の歴史を重ねることとなった。

2009-9-19から、Nikonカメラの『D90』を愛機として、撮影を開始しました。 1999年のホームページ作成時からの作品集です。
		画面表示のためのツールも技術習得の為にいろいろと取り込み、
		数多くの技法を習得し、シリーズ作品集として、管理しております。