D90が観た画像  d90-18147

神奈川県鎌倉市 鶴岡八幡宮・段葛
撮影日 :  2018−4−28
鶴岡八幡宮・段葛の「つつじ」
源頼朝が鎌倉に「武家の都」を造るにあたり参考としたのが「平安時代の京の都」である。
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平安京のメインストリート”朱雀大路”は、南は九条の平安京の玄関・羅城門から北は大内裏の玄関・朱雀門までを結ぶ長さ約6キロメートル、幅85メートルの大通りでした。
鎌倉には天皇の住いは無いので、「鶴岡八幡宮」が武家の都のシンボルである。
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鎌倉の土地は狭く、鶴岡八幡宮前から海岸まで1900メートルしかない。
100メートルは砂浜のため、道路は造れない。

現存する”若宮大路”は、1800メートル、平安京のように城門は造れないので、鳥居で代用する。
由比ヶ浜側から「一の鳥居」「二の鳥居」「三の鳥居」と・・・鎌倉特有の湿地帯のため、道の両側には、幅約3メートル、深さ約1.5メートルの木組みの溝枠を持つ側溝があり、この両側の側溝の間隔は約33メートルであるそうだ。
よって、道路幅33メートルで長さ1800メートルの参道が出来た。

「一の鳥居」から鶴岡八幡宮の社頭までは1300メートル、盛土によって大路中央部分は一段高く、その両側に堤を築いて石を置いた歩道になっており、これを段葛(だんかずら)という。
寛文8年(1688)、徳川将軍家綱(いえつな)によって、それまでの木造の鳥居から石造の鳥居に建て替えられた。
その後の地震や津波での破壊で明治の初めには二の鳥居から南がなくなり、さらに若宮大路を横断するJR横須賀線の開通で一部撤去されたことにより、現在、段葛は500メートルとなった。

関東大震災のおり、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居は崩壊したが、一の鳥居だけは、元の石材を使って修復復元され、二の鳥居、三の鳥居はコンクリート製のものが新に再建された。
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段葛は、軍事的意味も持っていたと推測される。
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鎌倉幕府にとって、最大の脅威は朝廷を中心とした旧勢力(京が中心)である。
都市鎌倉は、特に西方向(京方向)に対する防衛構造を持っている。
幕府の中核は若宮大路の東側に集中している。

「若宮大路」は土塁で、両側には幅3メートルのお濠が有り、1800メートルの途中の3ヶ所にお濠を渡る橋が架けられている。
海岸から侵入して来た攻撃側の隊列が、目にするのは「遠近法を利用して視覚的に距離感を誤らせる」目的がある。
現に、二の鳥居側の道幅が4.5メートルで、三の鳥居出口は2.7メートルで、十分遠近法を感じる。

二の鳥居から三の鳥居までの段葛は、桜の花も終わり、つつじが満開になっていた。

2009-9-19から、Nikonカメラの『D90』を愛機として、撮影を開始しました。 1999年のホームページ作成時からの作品集です。
		画面表示のためのツールも技術習得の為にいろいろと取り込み、
		数多くの技法を習得し、シリーズ作品集として、管理しております。