D90が観た画像  d90-18177

神奈川県小田原市 小田原城総構(そうがまえ)
撮影日 :  2018−6−1
小田原城研究・総構めぐり・1回目
現在の小田原城址公園は、おおよそ南北:500m,東西:350mの広さだ。  外周にすれば、1.7キロメートル。
江戸時代は徳川家康の家臣の大久保氏が小田原城主となり、東海道の守りを固めた。
その後の城主は、阿部氏、稲葉氏、大久保氏と変り、明治時代を迎え、廃城となった。

一般的に「小田原城」を語る時は、戦国時代の「豊臣秀吉の20万の兵力にも耐えた・・北条氏の5万の兵力」である。
当時の「小田原城」は、難攻不落の日本一の平山城だった。
お城の機能や家臣・町人などの住宅まで全てを空掘りと土塁でぐるりと囲んでいた。
これを『総構(そうがまえ)』と言う。
江戸城の「総構」は、外濠で出来ており、16キロメートル有り、大阪城の「総構」は、8キロメートル。小田原城の「総構」は、9キロメートルあった。

明治時代には、小田原城址は宮内省の御料地となり、開発は行なわれなかった。
大正3年に小田原駅舎建設のために、「小田原高校」を宮内省の御料地に移設させ、その後も市営陸上競技場や相洋高校や小田原競輪場などが城跡に建設されているが、基本的には、戦国時代の遺構が、430年間も眠ったまま、現在に至るものである。

とても、一周9キロメートルを歩くつもりは無いけれど、「この遺構を是非、紹介したい」・・・と、思う所を取材して来た。
おそらく、取材は5〜10回ほどになると思う。
下の写真一枚目は、「小峰御鐘ノ台大堀切東掘」で、幅が20〜30メートル,深さは土塁の頂上から12メートル,堀の法面は50度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模級。
二枚目の写真は、「稲荷森」の空堀を真上から覗ける。
斜面の土は崩れやすく、10メートルの崖上まで登ってくるのは無理。
崖に沿って下を歩いてくれば、上から弓矢で狙い打ちされる。

2009-9-19から、Nikonカメラの『D90』を愛機として、撮影を開始しました。 1999年のホームページ作成時からの作品集です。
		画面表示のためのツールも技術習得の為にいろいろと取り込み、
		数多くの技法を習得し、シリーズ作品集として、管理しております。