D90が観た画像  d90-19198

神奈川県鎌倉市二階堂 903
撮影日 :  2019−6−17
鎌倉の苔寺・苔庭『大蔵山 杉本寺』
古都鎌倉で「最古のお寺・杉本寺」で,天平3年(731年)東国の旅をしていた行基(ぎょうき)は、ここが観音様を祀る場所にふさわしいと考え自ら彫った十一面観音を安置したことから始まったと伝承される。
鎌倉幕府が誕生する500年前の天平6年(734)に、光明皇后の御願により「東国の治安の安定を願い、右大臣藤原房前と僧行基(行基菩薩)に本堂を建立させたと伝承される。

本堂の内陣(最も奥)には、本尊として三体の十一面観音立像がある。
間近での拝観はできませんが、向かって左の像はその行基が建立時に安置したもの。
中央の像は円仁慈覚大師の作(重要文化財)、向かって右の像は、源信恵心僧都の作(重要文化財)。

間近に見れる立像7尺が三体ある、本堂に入り正面は前立十一面観音像は源頼朝の寄進、新十一面観音像は昭和期に当時の住職、慈海僧正の作そして、光明皇后の像も。

杉本寺境内を含め背後の大倉山はかつての杉本城跡である。
この地は六浦路(むつらみち、現在の金沢街道)に沿い、六浦の港に向かう道を押さえる要衝であったため、三浦氏一族の杉本義宗(三浦大介義明の嫡子、子はのち鎌倉幕府の侍所別当となった和田義盛)がここを杉本城として拠点としていた。

鎌倉幕府が滅びて南北朝時代の延元二年(1337)、北朝の足利尊氏に対応するため、南朝方の北畠顕家(きたばたけ あきいえ)は東北から南下、大軍をひきいて藤沢方面から鎌倉に攻め込む。
鎌倉にいる足利義詮(あしかが よしあきら、足利尊氏の嫡男)を守り北畠顕家に対抗するため奥州総大将に任ぜられた斯波家長(しば いえなが)がこれに対応。しかし片瀬、七里ガ浜、 由比ガ浜と次々に破られ、足利方はここ杉本城で防戦しましたが、斯波家長ら300人以上が討死した。
本堂近くにある数々の五輪塔は、その名残である。

参道の別れ道で、右は杉本寺の本堂へ、左は大倉山の山頂へ・・・ところが、この道の先には、3軒の個人宅があり、交通止めの状態だ。

ところで余談だが・・・・、
------------------------------
2008年以来、家族バラバラで持っていた「ガラ携」が、一週間前に「家族三人割引」の特典で「iPhone」に変った。
遅まきながら私も「スマホデビュー」である。
デジカメの18-200ミリズームレンズで撮影しても「一画面の収まらなかった(2848*4288)」被写体が、iPhoneカメラのパノラマ機能で撮影したら(3848*7172)の写真が撮れた。  ⇒ 迫力ある写真です。 

「苔寺・苔庭」シリーズを計画しています。  ⇒ クリック

1999年のホームページ作成時からの作品集です。
		画面表示のためのツールも技術習得の為にいろいろと取り込み、
		数多くの技法を習得し、シリーズ作品集として、管理しております。