D90が観た画像  d90-19211

静岡県磐田市鎌田 2065−1
撮影日 :  2019−6−27
東海の苔寺・苔庭『鎌田山 金剛院 醫王寺』
「鎌田山 金剛院 醫王寺」は、天平6年から20年(734〜748)聖武天皇の勅命を奉じて、行基菩薩がこの地を訪れ、この地に薬師如来をご本尊として祀ったのが始まりとして伝えられている。

平安時代の弘仁年間(810〜822)嵯峨天皇の厚い帰依を受け、七堂伽藍が整い、真言密教の根本道場となった。
その当時の山容は、広大な境内に、本堂、金堂、講堂、五重塔、三重塔、鐘楼堂、仁王門、三十六ヶ坊の末寺などが配置されていましたが、戦国時代の元亀3年(1572)、武田信玄勢の兵火にかかり寺塔ことごとく灰燼に帰したのでした。

のちの天正12年(1584)徳川家康は兵火による焼失をいたく惜しまれ、徳川家康自ら浄財を出してその再興を援助されましたが、ついに旧観に復帰させることが出来ませんでした。
慶長9年(1604)ふたたび失火による火災と悲運に見舞われますが、徳川幕府の御寄進を受け、医王寺は復興を遂げます。

寛永12年(1635)三代将軍徳川家光は、祖父徳川家康のかつて与えた「黒印」を改めて、石高百三十五石(135石)の「朱印」を与えられます。
おかげで寺運は大いに振るい、江戸時代末期まで代々百三十五石を領していました。
当時の隆盛をしのぶものとして医王寺では「大名駕籠」が現存しています。
 
本寺にあたる金剛院が明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の嵐により寺運がゆらいだため、明治8年(1875)医王寺を再興する形で法灯を守ったのです。
この時、三十六ヶ坊のほとんどが廃寺になっています。
そして、明治27年(1894)京都市東山七条の智積院の末寺に属し、真言宗智山派の寺院として、今日に至っています。
それ以前は京都市宇治の報恩院の末寺でありました。

1999年のホームページ作成時からの作品集です。
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