曽我の里は、鎌倉時代、幕府の御家人として活躍した曽我太郎祐信一族が居を構えていた。
祐信は弓馬の達人で有り、元暦元年(1184)「源平一の谷合戦」に加わり、文治五年(1189)正月、弓初めの式に十名の射手の一番手として出場。
後年、源頼朝は20名の弓馬の達人を集めて「流鏑馬談義」を開催し、流鏑馬の作法を制定する。
流鏑馬の神事は、「出陣」続いて「鏑矢奉献・頑丈奏上」「天長地久の式」を行なう。 ・・・1時間かけて、式は終る。
奉行・射手・諸役は行列を組み、「序の太鼓」に合わせて馬場に進む。 馬場の「三つの的」に神主はお払いをして、奉行は記録所にあがり、諸役が部署に就いたのを確かめて、射手は「素駆」を行ない、馬場を疾走する。射手は10人なので、奉射は2組に別けられた。
的は3つ有る。(一の的、二の的、三の的)、一走目の的は「檜板を網代にあみ、その上に紙を張って丸的をあらわし、的の後ろに四季の花を添える」
二走目は、「無地の檜板」当たるとパァーンと、いい音がする。
射手は交代して、同じく一走目、二走目を走る。
ここで成績の良かったもの5人で、「競射」を行なう。
的は「径三寸の土器二枚を会わせて、中に五色の切紙を入れた小的」だ。
当たる確率は低くなり、サービスで二走目もあった。
観客はほとんど帰っていったが、この後は「凱陣の式」と「直会式(なおらいしき)」があり、流鏑馬神事はすべて終わった。
動画撮影は、8本撮影したが、一本目は「7本を繋いでいます」。 二本目は「2つの的に当たった」もの。 |