盛岡の市内にあって、明治・大正・昭和・平成・令和と130年あまりの間に所有者が次々と変わった。
創立は、瀬川安五郎(1835年・天保6年生まれ)は、「両替屋惣助」の6代目として生糸売買で巨利を得、明治9年には秋田県荒川鉱山(現大仙市)の払い下げを受け、明治の実業家として手腕を発揮しました。
県下長者番付4位の財を成し、「みちのくの鉱山王」として中央財界で著名になり、上衆小路(現清水町)にこの広大な邸宅を構えました(現南昌荘以外の部分は取り壊されている)。
明治18年から明治40年・・・(日露戦争・大凶作・米価の暴落)
その後は、(明治40年から明治43年まで所有)に大矢馬太郎(盛岡市長)
そして、(明治43年から昭和7年まで所有)に金田一国士(盛岡銀行の頭取、交通運輸・電気ガスなどを手掛ける実業家)
さらに、(昭和7年から昭和62年まで所有)に赤澤多兵衛(繊維・呉服の小売・卸業として北東北で広く商いを展開)
そして、マンションブームの到来で、この南昌荘が大手マンション業者により買収され、見事な庭園が無くなるという話を聞き、組合員の共有財産・共同所有として購入する事を決めた。
盛岡市民生協からいわて生協へ(昭和62年から所有)される事となった。ところで、庭の中心にある「雪吊りの松」をご覧下さい。 「松・竹・梅」と言う珍しいものだとか・・・「松の中心に伸びる丸太は竹に見立て、頂上に編まれた藁は梅の花」だそうだ。 |