D90が観た画像  d90-20196

大人の休日倶楽部 4日間鉄道乗り放題
撮影日 :  2020−10−1
秋を探しに「千秋公園」へ,いざ参上
秋田駅から北西へ1キロメートルほど歩くと、お濠が見えた。 そして、今は公園になっている城跡に行く。

ここが秋田城かと思ったが、実際は、・・・・・
「秋田城」は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国(でわこく))に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・文化の中心地でした。
蝦夷(えみし)の人々が暮らしていた東北各地に同じように造られた律令国家の地方官庁の遺跡は「城柵官衙遺跡」(じょうさくかんがいせき)と呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置している。
天平5年(733)に、秋田村高清水岡(たかしみずのおか)に遷(うつ)された当初は「出羽柵」(いではのき)と呼ばれ、天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760)ごろに秋田城と呼ばれるようになった。
奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、また津軽(青森)・渡嶋(わたりしま)(北海道)のほか、大陸の渤海国(ぼっかいこく)(中国東北部)など対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられている。
延暦23年(804)秋田城が停廃させて河辺府へ移された。  ・・・これにより、秋田城は歴史から消えていく。

さて、源氏をそのルーツとする佐竹氏は、戦国時代に常陸国を治めていたが、関ヶ原の戦いで中立の立場をとったために、慶長7年(1602)義宣の代に水戸50万石から秋田20万石へと転封となった。

現在の城は、徳川家康に出羽秋田へと転封させられた佐竹義宣が築いた土造りの城。
高い石垣がないものの、三重に巡らせた深い水堀や高い土塁など、関東中世城郭の縄張術によって守りが固められている。
物見や新兵具庫として本丸北西隅に置かれていた二重櫓跡には、三重の御隅櫓が市政100周年記念に建てられた。
この時の城名は、「久保田城」と言う。は秋田駅の北西にある小高い丘に築かれており、現在は千秋公園となっている。
現在、唯一城内にある現存建物は「御物見番所」で、本丸の一ノ門と二の丸の間に残っている。 (下の写真)
北西隅にあった新兵具隅櫓(三階櫓)と本丸一ノ門が復元されている。