D90が観た画像  d90-21157

新潟県新潟市江南区沢海2丁目15−25
撮影日 :  2021−11−15
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福島潟を見てから、いったん彼の住居に戻り、次の予定地の「豪農の館」の電話番号が載っている資料を持ってきた。
どうも北方文化博物館だけだと複数ヶ所あるので、間違えるとのこと。  車のナビに登録した。
彼も一度、社員旅行で来たらしいが、断片的にしか覚えていなかった。

越後の蒲原平野をよぎる阿賀野川の西岸にある小さな集落に、伊藤家初代は江戸時代中期、初代文吉が宝暦6年(1756)、1町2反歩余の耕地を譲られ、同村安ヱ門家から分家独立した百姓からはじまり、以降、代々文吉を襲名してきた。
1820年代から50年ほど質屋営業をする一方で、倉庫業を営み普通の蔵敷をとるとともに商品担保の金融も行っていた。
伊藤家が阿賀野川と信濃川分岐する、小阿賀野川に隣接した位置にあり、新潟と会津間の海運の要衝という好立地点にあった。
幕末期まで地主というより、金貸業を主力として財を蓄積していったが、相当の蓄積を遂げ、これが明治以降の成長の原動力となった。
地主規模としては、慶応4年(1868)の土地所有は20町歩余りと記録するが、明治4年(1871)には116町歩余、同8年(1872)頃には、122町歩余であったものが、その後急速に蓄積を伸ばし、明治23年(1890)には747町歩、明治34年(1901)には、すでに1063町歩の千町歩地主に達した。明治41年(1908)には1348町歩まで拡大。
農地改革に近い昭和19年(1944)調査では1372町歩(1,372万平方メートル)と、県下最大規模の地主となったのである。

しかし、時代は変わり戦後農地解放によりこれらの土地は伊藤家の所有から離れ、「財団法人 北方文化博物館」に寄付されたものである。
明治15年から8年がかりで建てられた伊藤家の豪壮な本邸は、敷地8千8百坪、建坪千2百坪、部屋数六十五を数える純日本式住居です。

まず、建物に入ってすぐ、茶の間には16人が囲炉裏の回りに座れるという、台所では50人余りの従業員がいて、毎朝60キロ(1俵)の米を炊いていたという。
大広間の座敷を囲む廊下には柱が一本もない釣欄間工法、畳の数は100畳といわれている。
とくに、見落としがちなのが、「気を発する石」(パワースポット)、伊藤家の先祖が積み上げてた徳により不思議な「気」のエネルギーが満ちていて荘厳な癒やしの空間が広がっていた。     写真はスライドショーの59枚で矢印で示す御影石

13日から15日まで、私のわがままを素直に受け入れていただき、自宅の提供、食事、そして車による旅案内をして頂きありがとうございました。
最終日は奥様にも挨拶も出来ずに、次の目的地に向かうため、新潟駅で車を降りた。