D90が観た画像  d90-22005

埼玉県所沢市中富 1501
撮影日 :  2022−1−7
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所沢市内循環バス(ところバス)は6路線で、多聞院に行くには北路線「富岡循環コース」を利用する。
3時間間隔で1日4便だった。   海老名から片道5時間かかるので、途中で引き返そうかと思った。
他に交通手段がなかったので、やむをえなかった。
やっとのことで辿り着いた時は、太陽はだいぶ西に傾いていた。
境内は、明治元年の神仏分離令によって低いフェンスで仕切られてはいるものの、多聞院と毘沙門天宮と神明社が建っていた。

狛虎は「毘沙門天宮」の前に一対で立っているが、細身の体なので、豹かチーターのようだった。  台座部の刻銘によれば、石像の制作は慶応2年(1866 寅年)である。
特に印象的だったのは、初詣で「身代わり寅」を奉納する人が多く、お堂の欄干部まで小さな黄色い虎が埋め尽くされている光景に感動した。
私は多聞院の売店で買い求め、家に持ち帰ってきた。

多聞院毘沙門堂は、棟札から明和3年(1766)に落成したもの。
多聞院が所在する中富地区は、元禄年間に川越藩が行った三富新田の開拓地です。
元禄7年(1694)、川越藩主の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、この地の新田開拓に着手し、上富・中富・下富の三村が誕生しました。
吉保は、開拓農民の心の拠り所とするため、菩提寺として多福寺(たふくじ)を、祈願所として毘沙門社(びしゃもんしゃ)[別当寺 多聞院]の一寺一社を創建します。
創建(元禄九年)当時の毘沙門社は、御宮(おみや)・拝殿(はいでん)・別当寮(べっとうりょう)・鳥居(とりい)からなっていました。
寺伝によると、本尊の毘沙門天は武田信玄の守り本尊であり、信玄が戦陣に臨むときは、いつも兜の中にこの像を納めていたと伝わります。
なお、毘沙門堂の前には一対の虎の石像が奉納されており、これは、毘沙門天の御使が虎であることに由来します。
多聞院では 毎年5月1日に「寅まつり」が開催され、12年に1度、寅歳の「寅まつり」には、本尊の毘沙門天が開帳されます。