第61話  甲陽鎮撫隊の旗揚げ

鳥羽伏見の戦いでの幕府軍敗戦を、大坂城で知った徳川慶喜は、天保山沖から
海路をとってあわただしく江戸湾に逃げ帰った。

新撰組も数日遅れて、幕府の艦船で海路を使って品川に上陸した。

怪我をしている近藤勇と病気の沖田総司は神田和泉橋の「医学所松本良順宅」で
療養を続けた。
鳥羽伏見の勝戦で「錦の御旗」を立てた官軍は、徳川を掃討すべく「征討軍」を
江戸に向けた。
勝海舟の作戦に「甲府城を占拠して、征討軍の江戸進撃を阻止」する計画があった。
勝海舟は「新撰組を率いていた近藤勇と土方歳三」にこの計画を話す。

慶応四年(1868)二月三十日、新撰組はこの日より『甲陽鎮撫隊』を名乗り、
甲州街道を西に向かって出立、内藤新宿に泊まった。
三月二日、甲陽鎮撫隊の一行は日野宿の佐藤彦五郎を訪ねて休息し、その夜は
八王子宿に泊まった。
佐藤彦五郎は近在の義勇軍である春日隊を編成して、甲陽鎮撫隊に追従した。

甲州街道の難所・笹子峠の細い山道を旧式の大砲を運びながら、三月五日に
峠を越えて甲州に入り、駒飼宿に辿り着いた。
現在は宿駅の面影のない山間の地区となっているが、本陣、脇本陣の標柱が立っている。