第63話  新撰組の再編成の地、綾瀬の五兵衛新田


勝沼戦争での敗退後、「甲陽鎮撫隊」は三月八日に八王子宿、九日に日野宿、10日には江戸に戻った。
その後の動きを日を追って調べてみると、

11日頃、試衛館以来の仲間だった「永倉新八・原田左之助」は新選組と決別して「靖共隊」を結成した。
12日頃、負傷隊士等二十数名、粂部正親を長として会津へ先発した。
13日夜、隊士四十八名、綾瀬の五兵衛新田の金子健十郎邸を訪れ、宿泊した。
14日 近藤勇、隊士十名とともに金子家に到着した。 
15日 土方歳三、隊士四名とともに金子家に到着した。 
16日 隊士三名、金子家着。   以後、三十日まで連日のように隊士が訪れ、総員二百十三名を数えた。
  同日、勝海舟配下の軍事方松浪権之丞、金子家を訪問。
17日 同じく吉沢大助、金子家を訪問。 
19日 会津藩士兼川直記、金子家を訪問。 
24日 松本良順、金子家を訪問。 
27日 会津藩士数名、金子家を訪問。

さて、「甲陽鎮撫隊」が再度、『新撰組』として編成された場所は、現在の足立区綾瀬4丁目
五兵衛新田の金子健十郎邸と、観音寺が舞台になるのである。

まず、『五兵衛新田』なる地名であるが、新田開拓者の金子五兵衛さんの名前を付けたのである。
『観音寺』は、山号を古義真言宗稲荷山と言い、慶長十九年、五兵衛新田開拓者の金子五兵衛に
より菩提寺として創建された。
幕末には、住職が居ない、お寺だった。  新撰組がこの地に滞在した時は
下級隊士の宿所にあてられ、当初の38名から逐次増加して最多81名を数えた。

近藤勇ら幹部隊士の屯所となった『金子家』は、当時「五兵衛新田」の名主見習の
大きな屋敷でしたが、建て替えられているので、通りからの外塀で昔を推測するしかありません。

同じ町内に、外壁も立派で、土蔵もあり大きな屋敷が通りから目立ってました。
五兵衛新田では、「金子家」と共に名主であった「大室家」の屋敷ですので、当時の様子がわかります。

新撰組の足立潜伏が官軍に伝わり、三千人の追っ手が千住宿に到着した四月一日新撰組は
綾瀬から普賢寺方面に抜け千葉流山を目指して逃げた。

近藤勇が謝礼として金子家に残したものは「万延小判」5枚だけで、342両の支出に比べると
わずかな謝礼だった。
さらに当主は新撰組をかくまったということで、一ヶ月も官軍の厳しい取り調べを受け、莫大な経費を
請求する所もなく、金子家はしばらく困窮したという。
明治11年、東京府制が施行されると当主健十郎は名前を健重と改め、第1期・第2期の東京府議会議員を
務めるほど周囲の人望は厚かったようだ。
一方の新撰組近藤勇は五兵衛新田を出た三日後捕らえられ、四月二十五日板橋で斬首された。