第64話 近藤勇の助命嘆願


現在の足立区綾瀬の「五兵衛新田」の金子邸を屯所にしていた新撰組の情報が
官軍に伝わり、三千人の追っ手が千住宿に到着した四月一日には、綾瀬から普賢寺方面に
抜け千葉流山を目指して逃げた。
そして、翌日の慶応四年(1868)四月二日、総勢227名は下総流山に入り、
酒造家「長岡屋」を本陣とした。 しかし、後を追ってきた官軍に囲まれてしまう。

全軍を連れて「会津」に行こうとする土方歳三の意見と違い、流山の町を兵火に
巻き込むのを嫌った近藤勇は、単身で、流山を脱出した。

翌日の四月三日、官軍に自首すべく、官軍の板橋本営に出頭する途中越ヶ谷で捕まった
近藤勇は、板橋宿の脇本陣豊田一郎左衛門の家に閉じこめられてしまった。

一方、土方歳三は、流山で勇が官軍に捉えられたその夜、敵地とも言える江戸に敢えて
潜入したのだ。
翌日の四月四日、歳三は勇の助命嘆願に奔走するために、氷川神社裏の勝海舟邸を訪れている。

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私は11月3日、赤坂・六本木ヒルズ近くの「専称寺」に、沖田総司の墓参りをした。
その足で、氷川神社裏の勝海舟邸跡を訪ねることにした。
赤坂署の交番で道順を尋ねた。
若いお巡りさんが3人がかりで拡大図を広げながら探してくれた。
「氷川神社の東側100メートルのところに『小学校の跡地が』あり、そこが勝海舟の屋敷跡だと言う」

あらかじめインターネットで探していた写真の風景がなかなか見つからない。
あたりは薄暗くなり、不安になってきた。
今は、小学校の跡地は、養護学校になっている、思い切って養護学校の玄関を入り聞いた。

しばらく待たされている間、女性職員に案内され、展示コーナーを見ていた。
そこには、勝海舟の使用した「割れかけ茶碗」や「書籍」が保存してある。
この勝海舟の屋敷跡は、2度目の引越し先であったらしい。

男性職員がパソコンで調べてくれた結果、氷川神社の北側(神社裏)100メートルのところにも
史跡があるとのこと。

あたりはすっかり暗くなり、目印の建物の風景が目に入ってこない。
近くの交番で尋ねると、2〜3度通過ごした場所である。

やっと見つかった勝海舟の屋敷跡は、屋敷替えする前の話であった。

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『慶応4年4月4日 土方歳三来る。流山顛末を言う』

勝の日記には、そう書かれている。
歳三の心中を察しながらこの地に立つと、何とも言えない悲しみと焦燥感を感じるのである。