第65話 『江戸無血開城』会談に臨んだ3人


『江戸無血開城』会談は、薩摩屋敷での勝海舟と西郷隆盛の話は有名であるが、
実は、それ以前に、山岡鉄舟と西郷隆盛の会談で結論は出ていたのである。

会談の場所は、現静岡鉄道・新静岡駅の南(現在は、寿司屋となっている)
慶応四年(1868)三月六日、錦の御旗を掲げ、東海道を下り、
江戸城に総攻撃をかける官軍を率いる 西郷隆盛の所へ、
幕府の陸軍総裁・勝海舟は、徳川慶喜の処刑と江戸会戦を避ける目的で、
山岡鉄舟を静岡の西郷隆盛のもとへ派遣したのである。
三月九日、山岡、西郷の激論の末、「江戸無血開城」の会談は成立したのである。

やがて、中仙道を下ってきた伊地知が率いる官軍は板橋に陣を構え、東海道を下ってきた
西郷が 率いる官軍は、品川に陣を構え、江戸の市中では、
今にも官軍が乗り込んでくると大騒ぎであった。

明後日にでも、江戸城総攻撃と言われる三月十三日、幕府の陸軍総裁の勝海舟は、
江戸百万人の生活を戦火から守るために、田町薩摩屋敷の西郷隆盛を訪ねた。
この二人の会談は、三月十三日、十四日の両日に及び、「江戸無血開城」が決定したのである。

江戸城が実際に明け渡されたのは、四月十一日であり、 七月には、「江戸」から『東京』になり、
九月には、元号が「慶応四年」から『明治元年』に改められた。
十月には、徳川の居城だった「江戸城」は明治天皇を迎え、『皇居』と定められた。

この激動の半年間に、江戸百万の市民の生命と財産を保つことが出来、
徳川家も その滅亡を免れたが、『新撰組』の近藤勇は、板橋で官軍により、首をはねられ、
沖田総司は、病死したのである。 上野の山では、「彰義隊」が、会津若松では、
「白虎隊」の悲劇が起きたのである。

江戸を戦火に巻き込まなかった勝、西郷の二人の努力を称えて、丸い石碑が第一京浜に
面した三菱自動車本社ビルの植え込みの一角に有ったので、写真で紹介します。