第66話 試衛館の仲間も死出の旅へ

沖田総司

天保13年(1842)陸奥白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれ、8才くらいの時に、
訳有って、近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。
剣技は天才的で、十代のうちに免許皆伝に達し、文久元年(1861)には塾頭になっている。
近藤をあくまでも慕い、京都では新選組の一番隊を率いて活躍したが、労咳(結核)を患い、
池田屋事件を境に、市中見回りには行かず、床に着くことが多かった。
慶応3年(1867)の終わり頃には病状が悪化し、新選組が江戸に引き上げた後は、
一人隠れるようにして療養生活に入った。場所は、千駄ヶ谷の植木屋の離れとも、
新選組と親交のあった幕府御典医松本良順邸の中とも言われる。
一月前の近藤の処刑を知らされぬまま、一人で逝った。

慶応四年(1868)五月三十日、享年二十五歳。
戒名は賢光院仁誉明道居士。

見上げれば、高層ビルの「六本木ヒルズ」が目の前の『専称寺』に静かに眠る。


天寧寺にある「近藤勇の墓」は、

会津藩主・松平容保公が戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」を贈ったものである。
墓に葬られているのは、京都の三条河原から新選組隊士が奪ってきた首であるとも、
また遺髪であるとも言われている。


鶴ケ城は、

会津若松のシンボルであり、戊辰戦争では約1ヶ月の激しい攻防戦に耐えた難攻不落の名城。
維新後、城は明治政府によって取り壊され、城跡は競売にかけられるという悲惨な経過をたどった。
が、旧会津藩士であり銀行家でもあった遠藤氏が、私財をなげうってこれを落札し、
城はそのまま松平家に献上された。
のちに、松平家から市へ寄贈され、昭和40年、現在の姿に復元された。


五稜郭で新撰組は幕を閉じた。

箱館戦争の舞台となった五稜郭。
現在、当時の面影を偲ぶものは、兵糧庫のみとなった。

歳三最期の地と言われる場所は、市内に三カ所あるが、若松町のこの地には当時の関門を
復元したものと共に、歳三の碑が建っている。

勇が処刑された後、歳三は幕府軍の幹部として北へ転戦して行く。
最後は箱館五稜郭まで行き、徹底抗戦した。やがて、幕府軍の最後の砦五稜郭も
降伏する気配が濃くなったとき、一人敵地に飛び込んで、腹部に銃弾を受け、戦死した。
「ここで降伏しては、地下の近藤に合わせる顔がない」と言っていたという。
幕府軍の幹部の中で死んだのは。彼一人だった。
勇の死から約一年後のことである。

明治2年(1869)五月十一日 土方歳三 享年35歳