第34話 新撰組こぼれ話−2[謎の死]


大きな事件の谷間に沈んでしまった小さな話です。

新撰組関係のホームページに必ず登場する「人物や場所」を、私・新撰組局長も
当然のごとく、撮影してありますが、なかなか、取り上げる機会が無かった。

1864年から1866年の間の小さな事件を追ってみた。

1.松代藩士・佐久間象山、京都・三条木屋町で暗殺される。

  佐久間象山の略歴

文化八年(1811)二月二十八日、信州松代藩に生まれ、少年時代から
秀才の誉れが高かった。
天保4年(1833)江戸に出る。天保十年(1839)江戸・神田に塾を
開き、天保十三年(1842)藩主真田幸貫より「幕府の海防掛」を命じられ、
「海防八策」を建言する。
西洋兵学を学び、蘭学を学び、オランダの百科辞書をひも解き、新しい知識を
身に付けた。
勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助らを育てた。

1853年、1854年のペリー提督来航の折にも活躍し、横浜港の発展の
基礎作りもしている。

門下生・吉田松陰のアメリカ密航事件に連座して幕府からとがめられた。
44歳から52歳までの丸8年間を、国元の信州松代で蟄居した。

文久2年(1862)蟄居を解かれ、元治元年(1864)京都にいる14代将軍
徳川家茂の召命により、京都にのぼり、公武合体論と開国論を主張した。

元治元年(1864)七月十一日、山階宮邸からの帰り道、三条木屋町で、因播藩の
前田伊右衛門、熊本藩の川上彦斎ら攘夷派に暗殺された。
墓は、京都市右京区妙心寺大法院と長野市松代蓮来寺に有る。

京都市三条にある「佐久間象山遭難地碑」は、下記の写真です。

下の写真をクリックして、スライドショーをご覧ください。


2.新撰組四番隊組長・松原忠司の切腹

松原忠司の生い立ちや切腹に至る経緯は良く判っていない。

播州小野藩士の子に生まれ、安政年間に脱藩し、大坂で柔術道場を開いたものと
新撰組内部では伝わっている。
最初は副長助勤で、四番隊長だった。
池田屋事件にも参戦し、十五両の褒賞金を賜っている。

文久三年(1863)八月の「禁門の政変」では、坊主頭に白鉢巻をして
大長刀を担ぎ、御所南門の警備に当たった姿が「今弁慶」だったとか。

元治元年(1864)十二月の新撰組編成では、七番大砲組長、
慶応元年の新撰組編成では、柔術師範を務めた。

彼の最後は不可解な話が多い、謎の死を遂げている。
墓は、「光縁寺」に有る。

下の写真をご覧ください。


3.一橋家臣の大石造酒蔵の墓がなぜか新撰組の仲間と共に。

一橋家臣の大石造酒蔵(おおいしみきぞう)は、祇園で喧嘩の末、
新撰組の隊士・今井裕二郎に、惨殺された。
大石造酒蔵の兄に、武州生まれで、旧一橋家臣の大石鍬次郎が新撰組にいる。
この兄は、新撰組唯一の仕置き人で、人斬り鍬次郎の異名を持つほどに、
新撰組が絡む惨殺事件にほとんど関わっていたつわものゆえ、
鍬次郎の弟の亡き骸を「光縁寺」に埋葬したのだろう。

墓は、「光縁寺」に有る。

下の写真ををご覧ください。


4.新撰組勘定役・河合耆三郎の切腹

河合耆三郎は、天保九年(1838)播州高砂の米商人・河合儀平の長男と
して生まれた。
文久三年に入隊し、池田屋事件にも参戦した古参隊士である。

商家出身の能力をかわれ、「新撰組の勘定方」を担当していたが、
慶応二年(1866)河合が管理していた「隊費の一部」が紛失したので、
実家に相談し、穴埋め金を実家より送金してもらうことにし、秘密裏に処理しようとした。

「隊費紛失事件」が発覚し、穴埋めの約束の期日も過ぎ、河合耆三郎は責任をとり、
切腹した。

実家との連絡は、不幸にも事故で遅れていた。
実家から、補金と便りが届いたのは、河合の死後であった。

新撰組は、壬生屯所の近くの「光縁寺」に墓を建てたが、
河合の実家は、独自で「壬生寺」に立派な墓を建てた。

下の写真をご覧ください。


5.谷三十郎は八坂神社前の祇園石段下で殺害される。

備中松山藩士・谷三治郎の長男として生まれた。父親は備中松山藩の剣術師範だった。
谷三十郎は、弟の万太郎と共に大坂で武芸道場を開いた。

元治元年の池田屋事件にも兄弟で参戦している。

慶応二年(1866)四月一日、祇園石段下で頓死している。
死因は、謎である。

下の写真をご覧ください。

・・・おしまい・・・