第50話  伊東甲子太郎は、ここ(本光寺前)で絶命


七条通り油小路の南に小さな尼寺がある。  お寺の名前は、「本光寺」という。
尼さんの名前は、吉田智光(77歳)、小さなお体の「本光寺・第22世の庵主」である。

取材に出向いた島原の太夫を、雑誌社の記者と間違えたらしく、

・・・・「南無妙法蓮華経と、お題目を刻んだ門派石」に、手向けをして、・・・・
「伊東甲子太郎が、瀕死の重傷を負いながら、新撰組の追っ手から逃れてきて、
本光寺の門前に有った『この門派石』にもたれかかって、『王事に尽くさんが為に
投げ出した命なれど、もはや命運尽きたるは残念至極。 新選賊!』
と、言って
絶命した」   慶応三年(1867)十一月十八日  享年33歳

私に、「幕末の油小路七条事件」を淡々と、時には、熱を帯びて澱みなくお話してくれました。

・・・さて、 私・新撰組局長は、『伊東甲子太郎に関して』調べてみた。・・・

天保六年(1835)常陸の国・志筑藩で、志筑藩目付鈴木専右衛門の長男として生まれた。
水戸にいた頃は、金子健四郎道場で「神道無念流」を、江戸に出てきてからは、
深川佐賀町の伊東精一郎道場で「北辰一刀流」の免許皆伝を取った。

師匠の伊東没後、伊藤の娘の婿となり伊東道場を継いだ。
門弟には、加納鷲雄、藤堂平助がいた。

元治元年(1864)藤堂平助の勧めにより、門弟7名を連れて新撰組に入隊する。役職は参謀である。
    改名を2度している。
    1度目は、鈴木大蔵から 伊東大蔵へ
    2度目は、伊東大蔵から 伊東甲子太郎へである。

伊東甲子太郎は、水戸時代に「尊王攘夷敬幕の水戸学」を学んでいる。
新撰組に加盟したのは、「尊王敬幕と攘夷」のためだった。
「佐幕」に傾斜する近藤・土方路線についていけなくなった。
自分の思想信条を貫くために新撰組離脱を模索し始めた。

慶応三年(1867)三月二十日、亡くなった孝明天皇の禁裏御陵衛士を拝命する。

慶応三年六月八日、新撰組から15人が分離し、高台寺党(月真院党)を結成した。

その後、薩摩藩の大久保利通ら勤王派と会談を重ねたり、朝廷に建白書を提出するなり、
尊王活動を本格的に展開した。

・・・・・ そして、慶応三年十一月十八日の夜8時頃である。 ・・・・・・

近藤勇の妾宅で歓待された伊東甲子太郎は、酩酊して帰営中である。
木津屋橋近くで、新撰組隊士が数名待ち伏せしている。
突然、槍で肩から喉を刺し抜かれた。
伊東甲子太郎は瀕死の重傷を負いながらも、刀を抜いて立ち向かう。
一名を斬り捨て、油小路通りに逃げ込んだ。
本光寺の門前で力尽きた。
夜空には、満月前の丸い月が煌々と輝いていた。

伊東甲子太郎の遺体は、御陵衛士をおびき寄せる囮(おとり)として放置され、
遺体回収に駆けつけた衛士7名と、新撰組による「油小路の戦い」が十九日に有った。

この時、藤堂平助は殺された。
翌日からは、伊東甲子太郎、藤堂平助を含む4名の遺骸が数日間、
囮として油小路に晒された。

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御陵衛士の残党は薩摩藩邸に逃げ込み、保護された。
一ヶ月後の十二月十八日に、残党は、近藤勇を襲撃したのである。

4人の亡骸は光縁寺に埋葬されるが、新撰組が京都を去った後、、御陵衛士の生き残りによって
孝明天皇の墓所(泉涌寺)に近い『戒光寺』に改葬された。

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・・・おしまい・・・