第55話  天満屋事件

『天満屋』とは、旅宿の屋号である。  京都の市街地も江戸時代の建物が
消えていくのも止むを得ない事であるが、旅宿・天満屋もマンションになってしまった。
・・・・天満屋騒動の跡・・(下京区油小路花屋町下ル西側)・・・・
 天満屋の跡地となる、現在の吉田マンション前の延命地蔵尊の横に古石柱が残されているだけ。
 石柱の側面に「維新史跡 慶応三年十二月七日 天満屋騒動之跡」と刻まれている。
    [ 史料より ]
    往時の天満屋を知る、油小路花屋町角の菓子商、羽田増吉(明治元年生まれ)
    が昭和十四年に語った談話が残されている。
     『なにしろ私達が生まれる以前のことですが、七つ八つのころ
  その天満屋へ遊びに行った記憶があります。
  そのころ大人の人から、世にいふ天満屋騒動のあったことをしばしば聞かされてましたが、
  何分古い話で詳しいことは覚えておりません。しかし私達が遊びに行った時分には
  二階建ての家で、丸天の大きい印が入った屋根看板が揚げてあり、表の入り口に
  旗の掲楊台があって、天の字を染め抜いた旗が毎日あげてありました。』
                                                                 (『維新の史跡』) より

手動でめくれます。・・・写真をクリックします、マウスの右クリックでめくります。

さて、『天満屋事件』なるものを調べてみた。
慶応三年(1867)十一月十五日、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される事件があった。
龍馬が率いていた海援隊では、いろは丸事件を恨みに思った紀州藩が、新撰組を使って
2人を暗殺したものと断定した。
海援隊は、復讐の的を紀州藩公用人の三浦久太郎に定め、命をつけ狙う様になる。
危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して新撰組に三浦の警護を依頼し、
新撰組は斉藤一を筆頭とする隊士を三浦の護衛に付け、三浦の旅宿である天満屋に張り込ませた。
そして、十二月七日夜、三浦の居所を突き止めた海援隊は陸奥陽之助ほか15名で
天満屋に襲撃を掛けた。
三浦を警護していたのは斉藤ほか9名の新撰組隊士で、このとき酒宴を
張っていた事もあり、不意を突かれて不利な形勢に陥いるが、新撰組隊士がとっさの
機転を利かして「三浦討ち取ったり!」と偽りの声を上げ、虎口を脱している。
この事件で、三浦は軽傷を負っただけで、
襲撃側の中井正五郎(十津川郷士)、新撰組の宮川信吉(近藤勇の甥)が討死した。

・・・おしまい・・・