第59話 鳥羽伏見の戦い

まえがき

 鳥羽・伏見の戦いは、幕府としては戦わなくても良かった戦争である。

既に、第15代将軍・徳川慶喜は、朝廷に大政を奉還して、将軍職を辞任した
からといっても、徳川氏がこれまでに保持してきた権力の全てを失った
わけではなかった。
幕府の領地はそのままであるし、政権を返された朝廷のほうでも、国政を運営する
力も組織力もなかった。

岩倉具視と大久保利通が画策した「王政復古の大号令」も思うように進展しなかった。

逆に、徳川慶喜は大坂城にあって列国の行使を引見している。

このままでは徳川慶喜の政治力で討幕勢力は敗北すると察した薩摩藩の大久保利通と
西郷隆盛の両名は、旧幕府勢力を挑発して、激昂させることにより強引に軍事衝突に
持ち込み、武力をもって徳川を滅ぼそうとの謀略を決意したのである。

こうして、慶応三年の末になると薩摩藩によって扇動された浪士たちが江戸市内で
次々に放火・略奪などのゲリラ活動を展開した。
江戸城在住の小栗上野介等の過激派勢力が江戸の薩摩藩邸を襲撃、徳川と薩摩は
交戦状態に入った。

この江戸の情報が大坂城の旧幕府軍に届き、ついに、幕府大目付・滝川具挙を先鋒に
慶応四年(1868)一月二日、総勢1万5千の幕軍は薩摩討伐のため、京都に向かう。
会津の一隊は宇治を上って伏見の味方に合流、更に桃山天満宮西方へと移動した。

一方、討幕軍は、伏見奉行所北面に対して、西に土佐、東に薩摩、その中央に長州の
兵を配備し、東福寺には長州軍の主力を控えさせた。

鳥羽街道には東寺に薩摩軍の主力が置かれた。
薩摩・長州・土佐の総勢は5千といわれている。


開戦の火ぶたはこうして切られた。

一月三日、薩摩軍の一隊は小枝橋・赤池付近に布陣している。
幕府大目付・滝川具挙は朝廷に「討薩の表」を出している。
薩摩藩の指揮官・椎原小弥太は、幕府大目付・滝川具挙を相手にもめていた。

鳥羽街道を北上してきた幕軍を朝廷の許可が無いとして、阻止している。
幕軍は通行の許しを待っていたが、とうとう、夕暮れになってしまった。

幕府大目付・滝川具挙は痺れを切らして、強硬に進軍を号令した。

と、その時、戦いのきっかけを待っていた薩軍は、幕軍に大砲を撃ち込んだ。
この大砲を合図に、御香宮に屯所を構えていた薩摩軍は、新撰組や会津藩士が
陣を構えていた伏見奉行所にも砲撃を開始した。


かくして、鳥羽街道と伏見街道の二ヶ所を戦場とした幕軍1万5千の兵力と、
討幕軍5千の兵力の戦いは、優れた指揮官と新兵器を使いこなした討幕軍の銃撃で
幕軍は劣勢を強いられ、一月四日に薩長軍側に『錦旗』が翻ったことにより、
一月四日、一月五日と、幕軍の負け戦になっていく。

「官軍」「賊軍」のすみ分けを嫌った淀藩、津藩、鳥取藩、芸州藩が
討幕軍側に寝返った。


大坂城にいた総大将の徳川慶喜はいち早く海路で江戸に脱出を開始したため、
一月六日をもって、討幕軍は「新政府軍」と改名され、勝利宣言をした。

その後、「朝敵徳川慶喜討伐」を掲げて、『戊辰戦争』と続くのである。


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・・・おしまい・・・