第60話 井上源三郎は戦死する

 一月三日に始まった幕府軍と薩長軍との戦いは、鳥羽街道と伏見街道を中心とした
戦いであったために「鳥羽・伏見の戦い」と呼ばれた。

両軍の兵器は刀や槍ではなく、外国から購入した大砲や最新式の銃器である。
銃撃戦では、兵力の数ではなく、戦術や指揮官の優劣で戦いの勝敗が決まってしまう。

幕府軍は相手を殺すのは、刀や槍で戦うものと「武士の誇り」を持っていたが、
薩長軍の兵士は武士団でなく、大砲、洋式銃を兵器として訓練されたものである。

戦いの始まった翌日の午前中には勝敗の色塗りが出来た。
伏見方面の長州藩・土佐藩の兵による幕府軍の残兵掃討作戦のために、潜伏していた
会津藩、高松藩の兵士は撤退した。

鳥羽方面も、伏見で幕府軍を打ち破った薩摩軍が鳥羽口の薩摩軍に合流し、幕府軍に
襲撃を加えた。この結果、鳥羽方面からも幕府軍は撤退していく。

四日の午後ともなると、「錦の御旗」を確認した中立派の諸藩がこぞって薩長に寝返った。

翌5日、幕府軍は「千両松」と「富ノ森」で薩長軍を迎え撃つことになった。
「富ノ森」は一時、薩長軍を押し返したが後続戦力がなく、淀城へ撤退する。
新撰組は「千両松」の部隊に参加していた。
幕府軍は淀城での篭城戦に持ち込むために撤退を始めた。

井上源三郎が率いる「新撰組・六番隊」は撤退命令を聞かなかった為に、薩長軍と
激戦することになった。この結果、十数名が命を落としたのである。

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井上源三郎の子孫は、NHK大河ドラマ「新選組」を機会に、「井上源三郎・資料館」を
建てた。
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井上源三郎を弔う墓碑は中央線日野駅近くの「宝泉寺」に建てられいる。
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・・・おしまい・・・