第35話 三条制札事件


京都町奉行所は、『長州藩の罪状を記した制札』を、京の町二十数ヶ所に立てた。
この『長州藩の罪状』とは、
幕府は、元治元年(1864)の『蛤御門の変』以後、長州を朝敵と扱っていた。

慶応二年(1866)八月二十八日夜、鴨川に掛かる三条大橋の河原に、
塗りつぶされた制札が踏み壊されて、投げ捨てらる事件が発生した。

九月二日に、新しく立て替えるのだが、九月四日に、再び、踏み壊して捨てられた。

町奉行所は京都守護職の会津候へ警備を申し入れた。

九月十日から、新撰組に警備の出動命令が下った。
新撰組は、10〜12名で隊を組み、三ヶ所に潜んだ。

原田左之助組は橋南の先斗町会所に、新井忠雄組は高瀬川東の酒屋、服部武雄組は
橋の東の町屋に、隊士2人に乞食姿をさせ、橋の下から厳重に警戒した。

九月十二日の月明かりの夜、土佐藩の藩士と脱藩者の8名が制札の所に来た。

結局、土佐藩の8名は、原田左之助組の12名と斬り合いを始め、続いてやってきた
新井忠雄組の10人に挟み撃ちされ、土佐藩の藤崎吉五郎が斬死され、宮川助五郎が
捕縛された。

九月十九日夜、三条制札事件から一週間後、新撰組との不和は利益にならないと
考えた土佐藩留守居役の荒尾騰作は、新撰組幹部の近藤、土方、井藤、吉村を
招いて祇園で酒宴を開き、手打ちをした。

会津藩からは、十二月二十日に、感謝状と隊士27名への恩賞金が下された。

事件の舞台となった現在の三条大橋と、事件当時の親柱の一部を撮影した。

ソースプログラム制作:QPON  二次加工:近ちゃん

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宮内庁・月輪陵墓監区事務所(京都市東山区泉涌寺山内町)に  
   江戸時代の「三条大橋の親柱」が保存されていた。
・・・おしまい・・・