第39話 激動する安政年間の政局


ペリー提督率いる「黒船艦隊」以来、主席老中の備後福山藩主・阿部正弘の主導で、
日米和親条約を締結、日本を開国へ導き、幕府は国防(海防)改革や洋学教育に力を注いだ。

1.大船建造の解禁・・・黒船に対抗できる大きさの船を建造した。
2.砲台建設・・・・・・品川、長崎に砲台を作る。
3.長崎海軍伝習所開設・・・洋式海軍技術の修練機関を作る。
4.講武所開設・・・・・幕臣に、砲術、剣術、槍術、水練を教えた。
5.蕃所調所・・・・・・洋学研究教育機関・・・後の東京大学。

安政二年(1855)十月九日、主席老中の備後福山藩主・阿部正弘が辞任する。

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代わって、主席老中となった、佐倉藩主・堀田正睦は、積極開国派である。

安政三年(1856)七月、アメリカ総領事ハリスが伊豆の下田に赴任した。
翌年の安政四年(1857)十月に、ハリスは江戸城で第13代将軍・家定に謁見した。
ハリスの目的は、「日米通商修好条約」の交渉であった。

安政四年の十二月に条約の内容が固まったので、調印の前に孝明天皇の勅許を
貰うべくして、安政五年、主席老中・堀田は京都に出向いた。
が、孝明天皇の強い攘夷の意思もあり、勅許を貰えなかった。



第13代将軍・家定は病弱で奇行も多かった為、幕府内部は将軍後継者選びで
二つの派閥が激しく対立していた。
一橋派は、
前水戸藩主・徳川斉昭の実子で一橋家に養子に出ていた『一橋慶喜(17歳)』を
福井藩主・松平春嶽、前水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内容堂
宇和島藩・伊達宗城、その他、旗本で非門閥の開明派幕臣らが推した。

南紀派は、
『紀州藩主・徳川慶福(8歳)』を彦根藩主・井伊直弼を中心に譜代大名が推した。


安政五年は、将軍の後継者選びと並行して、先の「日米通商修好条約の勅許問題」が
浮上して、条約に反対する孝明天皇と朝廷のグループと、幕府の対立が表面化してきた。

京都まで出向いた主席老中・堀田は、結局、天皇から「日米通商修好条約」の勅許を
貰えないまま江戸に帰ってきた。

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その3日後、南紀派の老中たちの根回しで、彦根藩主・井伊直弼が突然大老に任命された。

安政五年(1858)五月一日、大老・井伊直弼は就任から一週間も経たない内に、
将軍後継者に『紀州藩主・徳川慶福(のちの家茂)』を指名した。

七月に、第13代将軍・家定が死去したので、徳川慶福(のちの家茂)が
第14代将軍になった。

さらに、安政五年六月、大老・井伊直弼は天皇から勅許を得ずに無断で、
「日米通商修好条約」を締結したのである。

加えるに、政敵である一橋派の徳川斉昭らの関係諸侯を隠居・謹慎し、
主席老中・堀田にも罷免・隠居を命じた。

安政五年八月、孝明天皇から幕府と水戸藩へ「勅書」が下賜された。
「幕府への勅書」は、徳川斉昭らの処罰の理由を問い、徳川御三家や諸大名は
幕府に協力して、公武合体を強化するようにとの趣旨だった。

「水戸藩への勅書」は、勅書の他に副書が付いていた。
「その副書」には、勅書の内容を水戸藩から御三家や諸藩に伝えるようにと書いてあった。

『孝明天皇から水戸藩への勅書』は、正式手続きを踏まず、幕府を飛び越した、
前例の無いもので有ったため、「戊午の密勅」と呼ばれた。

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『安政の大獄』
幕府は「戊午の密勅」をめぐって、水戸藩に対し、勅書を幕府に返納することを
命じ、先の将軍後継者問題の決着をも図ろうとした。

水戸藩の家老、京都留守居役の死罪、京都の尊皇攘夷志士の中心的人物の死罪、
長州藩の吉田松陰の死罪、越前藩の橋本左内の死罪をはじめ、70人を超える
志士・幕臣・諸侯・公家が遠島・蟄居・隠居などの処分を受けた。



「勅書返納問題」で、水戸藩の尊皇攘夷派は、返納派(鎮派)と返納反対派(激派)に
分裂した。
水戸の藩論が返納と決まり、激派への弾圧が始まると、追い詰められた激派の
中心人物たちは脱藩し、江戸に向かった。

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『桜田門外の変』
安政七年(1860)三月三日、雪の降る朝、大老・井伊直弼は、江戸城桜田門外で
暗殺された。

彦根藩の屋敷は、桜田門からお濠沿いに500メートルのところにある。

彦根藩の行列は、徒士以上が20数名、足軽以下40名ほどであった。
水戸浪士18名、薩摩浪士1名が、登城途中の行列を襲い、大老・井伊直弼の首級は
薩摩浪士・有村次左衛門(23歳)によって挙げられた。

彦根側は、死者4名、負傷者15名。
浪士側は、闘死1名、自尽4名、自訴8名、逃走5名。

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大老が不在となった幕閣の実権は、主席老中・久世広周、老中・安藤信正に移った。
当初、幕閣は水戸藩に厳罰を与えようとしたが、朝廷や尊皇攘夷派に支援者の多い
徳川斉昭の謹慎を解いて、朝廷と幕府の関係改善を図る方策に切り替えた。

実は、「水戸藩の処分」に関して、水戸徳川家との親戚に当たる会津藩主・松平容保の
「将軍家と水戸家の和解を周旋」の努力が実ったのである。

「桜田門外の変」後、政局も代わり、年号も、「安政七年」から「万延元年」になり、
『天地のひっくり返るような、激動の安政年間の政局』も終焉したのである。

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現在の皇居・桜田門は、大正12年の関東大震災で一部破損したため、
江戸時代とは異なった建物となっている。

先日、NHKスタジオパークを訪ねたら、「新撰組!」で撮影した「桜田門」は
神奈川県・小田原城を採用したと、写真パネルは云っていた。