第40話 孝明天皇の謎の死因


公武合体論を唱え、親幕府的かつ保守的な考えをもっていた孝明天皇が、
突然、疱瘡を発病、回復の兆しがあったものの、享年36歳で崩御した。

孝明天皇が急逝した後、岩倉具視ら討幕派の公卿勢力が急速に高まり、
「大政奉還」、「王政復古の大号令」、「鳥羽・伏見の戦い」へと時代が動いた。

孝明天皇は、天保二年(1831)六月十四日、第120代仁孝天皇の第4皇子
として誕生する。
10歳で立太子、16歳で父の崩御の為に、弘化四年(1847)九月二十三日
第121代天皇に即位した。

この頃の幕府の政治運営は、老中主席・阿部正弘が担っていた。
折から、西洋諸国の軍艦が日本沿岸に出没し、尚且つ、幕府も封建制度が弱まってきた。

特に、アメリカからの開国要求には、孝明天皇は大反対であった。

幕府は、井伊直弼が大老の座に就き、第13代将軍も死去し、第14代将軍・家茂に
入れ替わった。
井伊直弼は、将軍・家茂の嫁に孝明天皇の妹・和宮を奏請した。
既に婚約者がいた和宮であったが、井伊直弼暗殺の後も幕府の執拗なまでの要求に
孝明天皇は抗しきれなかった。

将軍・家茂と皇女・和宮との結婚が決まったあと、朝廷の勢力が幕府を上回り、
尊皇論が熱を帯び、長州を中心とする攘夷派が台頭して、幕府と長州の戦争へと
繋がっていった。

第2次の長州征伐で、幕府軍が敗戦の最中、将軍・家茂は、大坂城中で
慶応二年(1866)七月二十日、21歳の若さで没した。

慶応二年(1866)十二月五日、一橋慶喜(29歳)が第15代将軍に就いた。

公武合体論(朝廷と幕府が力を合わせて、外国に侵入されないよう)を切望していた
孝明天皇(36歳)であったが、慶応二年(1866)十二月二十五日に崩御した。

陵墓は、京都市東山区今熊野泉山町に有る。

・・・おしまい・・・