第41話  高杉晋作のあまりにも短かった人生


第25話で生い立ちから、24歳までを紹介したが、今回は、27歳で志半ばのまま
「日本の夜明け」を見ずに死んでいった4年間を話そう。

弱冠23歳の高杉晋作に、毛利藩主は藩の存亡を賭けていた。
外国の軍艦と2度の「馬関戦争」に敗北を味わい、近代的な兵器を備えた外国の強さを
思い知らされた長州藩は、高杉に「下関の防衛」を命じた。
そこで、武士に頼らず、身分に関係なく入隊できる新しいタイプの軍隊を作った。
その軍隊を「奇兵隊」となずけた。

この頃の長州藩は、尊皇攘夷派の久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、真木和泉らの
死亡と、「蛤御門の変の罪」を問われ、幕府に攻められ(第1次長州征伐)屈服させら
れたために、幕府に従おうとする考え方の藩士が多くなってきた。

24歳の高杉は、倒幕を主張する『急進派』と幕府に従おうとする『俗論派』に二分された
「長州藩」を『倒幕にまとめる』ために、元治元年十二月十五日(1864)、
下関の功山寺でわずか80人で挙兵し、長州藩にクーデターを起こした。

このクーデターを「大田・絵堂の戦い」といい、奇兵隊・遊撃隊・力士隊・八幡隊・鷹懲隊
などの諸隊と藩軍との戦争は、高杉晋作側の勝利に終わり、慶応元年(1865)二月
長州藩は『倒幕を目指す』ことになったのである。

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慶応二年(1866)六月、幕府は第2次長州征伐軍を、芸州口(岩国)、石州口(島根県)、

大島口(山口県大島)、九州小倉口(門司)の4カ所の国境に10万人の兵力を配備した。
隣接する国境で行われた戦争なので、「四境戦争」といわれている。
対する長州軍は、5千人の兵力であった。

小倉城には幕府軍2万人が配置され、幕府軍の最高指揮官がいた。
この頃の高杉晋作は、肺結核を患っており、病床に有りながらも、小倉口の戦いを指揮した。
坂本龍馬も、長崎から「ユニオン号」で駆けつけ幕府艦隊を牽制した。
高杉軍は九州の田ノ浦と門司を占領した。
七月二十日、徳川14代将軍・家茂が、大坂城で逝去したこともあり、幕府軍も戦意が落ち、
八月には小倉城を炎上させ、幕府軍は敗退したのである。

慶応三年(1867)四月十四日、倒幕の悲願達成を目前にして、
27歳で波乱に満ちた生涯を閉じた。

亡骸は、『東行庵清水山』に葬られており、愛人の「おのう」が出家し、
「梅処尼」と名乗り高杉晋作の霊を慰めた。

墓の近くには、伊藤博文が高杉を顕彰した碑がある。
『動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし』

写真は、私の4年来のメル友で、京都の「都人」なる者、行商のおり、
山口、小倉、長崎を撮影してきていただいた。

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・・・おしまい・・・