第三話  近藤勇の無二の友が多摩に2人いた。

私・新撰組局長が現在の町田市郊外の『小野宿』を訪ねるのは3回目である。

最初は、「いざ!鎌倉」なるホームページを作成時に鎌倉古道を歩いた折りに、
二度目は「龍の彫り物」探しで鎮守の小野神社を訪ねているのだ。

近藤勇がこの小野宿と関わりを持つのは、小野路村の名主・「小島鹿之助」とで有る。

今日は、この「小島鹿之助」に触れてみよう。
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19代当主小島政則は、幕末の天保10年より苗字帯刀を許され、
この小野路村を中心に鶴川、平尾、鉄など近郷34ヶ村を管理する寄場名主を勤めた。
小島家では、代々の政治力に加え、国学、漢学の造詣が深く、和歌、狂歌、漢籍、
書を能くし、剣術、馬術、弓術などの武術も盛んに取り入れ、村人の文武の
範たるべしとしていた。

第20代当主鹿之助は、また学者肌の名主であった。
そして、学問と同等以上に武術を好んだ父政則が
天然理心流3代目・近藤周助の門人となり、切り紙と目録を授かっていた影響で、
鹿之助18才の時に寄場名主籍を父から継承すると、
嘉永元年には19才で同じく近藤周助に入門している。

小島家は屋敷内に道場を持ち、天然理心流の師範をたびたび招いたので、
日野の佐藤家とともに、多摩における天然理心流の拠点となっていた。

その後、近藤周助の養子となった近藤勇と面識を持ち、同じく日野宿で
寄場名主を務める親戚筋の佐藤彦五郎とも剣術を通じて交流を深める事になる。

後に、三国志の故事にならい、この3名は「義兄弟」の契りを交わしている。
年齢的には彦五郎が最も年長で、1才年下の鹿之助がこれに続き、
勇はさらに5才年下であった。

新選組の局長となった近藤勇は、崩壊直前の徳川幕府の京都市中警察隊として
鉄壁の組織を作り上げたが、その成立過程でこの二人の影響を強く
反映していると思われる部分が多く見られる。統率力、豪胆さは彦五郎から、
文芸を重んじ政治力を発揮したのは鹿之助の影響と言える。

新選組が京都で奮闘している頃、江戸をはじめ武州でも倒幕派の不穏な行動が著しくなり、
また、幕府への不信感をつのらせた民衆が各地で一揆を起こす動きを見せていた。
一方で幕府の横浜開港により、外国人が上陸するようになったため、
野蛮だと迷信されていた西洋人の動きを監視する必要も発生していた。
鹿之助は、管理下にあった代官所の要請で、近郷の警備や有事の際に即応すべく、
主に小野路村の若者を集めて訓練し、小野路農兵隊を組織した。

慶応3年の大政奉還後、新選組は京を離れ一旦江戸に戻ったが、
直ぐに甲府城占拠を目的に、甲陽鎮撫隊として甲州に向かった。
この時、鹿之助は隊の後方を支援するため自ら指揮をとって小野路農兵隊を出動させた。
名主の家督を長男の守政に譲り、不退転の決意で出陣したが、
多摩郡鑓水まで進軍したところで鎮撫隊敗走の報を聞き、兵を解散している。
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2003−10−13に撮影してきたので、紹介しよう。

明治時代のままの道幅・・・一車線だ。 小島家の板塀
小島資料館の石碑 小島家の表門
小島家の裏門 小島資料館の案内
小野路村の鎮守さま 小野神社にも龍の彫り物が有った。

上の写真を拡大してご覧になれます。・・・ここをクリック
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小島家には近藤らの書簡や遺品数十点が伝わる。これらを管理、
公開するために68年に小島資料館ができた。
なお、ホームページも公開されているので、リンクを張らせていただく。