第四話  清河 八郎の墓参り。

私・新撰組局長は、東京都文京区小石川の「伝通院」に行った。

「伝通院」を知る人は多い、徳川家の菩提寺である。

徳川家康の生母「於大の方」の法名が「伝通院殿蓉誉光 智香大禅定尼」と
言われ、この寺に葬られた際に、寺号を「無量山伝通院寿経寺」としたとの事。

墓地には、「二代将軍の娘・千姫」や「三代将軍家光の正室」、その他に、
徳川家の女性達のお墓が多いのだ。

さて、清河 八郎なる人物のプロフィールを紹介しよう。

清河八郎は天保元年(1830)、現在の山形県東田川郡立川村清川の郷士の家に
生まれた。
父は斉藤治助、母は亀である。

清河は少年時代は酷い不良だったと言われる。
十八歳の時に江戸に出てきて、米屋に奉公しながら東条一堂の塾に通った。
剣術は千葉周作に学んだ。

さて、話は飛ぶが、
徳川十四代将軍・家茂が京都に赴く際に、清河八郎は文久三年(1863)二月に
「伝通院内の処静院」で、『浪士隊結成』を呼びかけたのである。

江戸に戻ってまもなく、慶応四年(1868)に暗殺され、「伝通院の南端の墓地」に
妾のお蓮と墓を並べて眠っていた。
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2003−10−10 撮影

清河 八郎とお蓮の墓 解説板

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