第五話  近藤 勇「流山陣屋」で起死回生を図る。


私・新撰組局長は、千葉県流山市の「近藤勇 陣屋跡」の前にいる。

今日(2003−10−10)は、忙しかった。
そして、万歩計も二万二千歩であった。

近藤勇が、新撰組のルーツである「浪士隊」の結団式に参加した「伝通院」を
訪ねた後、板橋に行き、板橋上宿から歩き始め、いわく付きの「板橋」を渡り、
JR板橋駅前の「新撰組の墓所」までの『中山道・板橋宿』を歩き、更に、
流山市の観光場所を4キロメートル歩いたのだった。
流山市は、近藤勇が率いる「甲陽鎮撫隊」の終焉の土地である。

私・新撰組局長はいずれ、「甲州のゆかりの地」に行きますが、その話は
後日に語ります。

さて、「甲州の柏尾古戦場」で、官軍に敗れた「甲陽鎮撫隊」は、笹子峠に
逃げ、敗走に敗走を重ね、江戸を通り抜け、江戸の最後は、現在の
足立区綾瀬に位置する「五兵衛新田」の金子左内方に150名の押し込みが
有ったと文献が残っているそうだ。

そして、翌日の慶応四年(1868)三月二十日頃、下総流山に入り、
酒造家「長岡屋」を本陣として土方歳三らと「甲陽鎮撫隊」の建て直しを図った。

しかし、官軍に囲まれ、流山の町を兵火に巻き込むのを嫌った近藤勇は、
全軍を連れて「会津」に行こうとする土方歳三の意見と違い、単身で、流山を脱出、
慶応四年四月三日、官軍に自首すべく、官軍の板橋本営に出頭する途中、
越ヶ谷で捕まった近藤勇は、板橋宿の脇本陣豊田一郎左衛門の家に
閉じこめられてしまった。

この近藤勇のとった行動に乗じて、土方歳三は全軍を率いて、流山を脱出し、
旧幕府軍に合流し宇都宮攻撃に参加、のち、会津若松戦争に、そして、北海道の五稜郭へ
と進むのである。
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2003−10−10 撮影

流山駅前の看板 陣屋跡の看板
近藤勇が陣屋を張った当時の母屋 史蹟として残されている部分はここだけ。
連絡ノートはたったの2冊だけだった。 終焉の地に残されたたった一つの史蹟。

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