第十話  新撰組誕生の瞬間 (蛤御門の画像あり)


話は、最初の山場に来た。  ・・・新撰組の誕生秘話だ!

徳川幕府も300年近く鎖国政策をとっており、イギリス、フランス、
アメリカ、ロシアなどの外国から、開国を求める圧力がかかって来た。

尚且つ、日本国内に於いては、土佐藩、薩摩藩、長州藩なども幕藩体制に
異論を唱える様になってきた。

そんな時代背景の下、「反幕府運動」を『尊皇攘夷』と言う。

アメリカからの脅しもあり、「日米修好通商条約」を調印した幕府・井伊直弼に、
反対派は尊皇攘夷運動を展開するのだった。

井伊直弼暗殺後は、幕政は積極的に朝廷権威と結びつこうとする「公武合体策」に
転換した。

尊皇攘夷運動は『妥協的な公武合体運動』に対立してテロ行為を含む過激な
『朝廷権力の復活』を展開していった。

幕府打倒を目指す武力蜂起計画が生まれる段階に入ると、朝廷のある都は、
薩摩藩を中心とする「公武合体派」と、長州・土佐の「尊皇攘夷派」とで、
朝廷の取り合いで激突するのである。

その衝突が、世に言う「八,十八の政変」または、「禁門の政変」となる。

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8月18日の子の刻(深夜0時ごろ)過ぎから、中川宮を擁して会津藩、薩摩藩
の公武合体派の公卿が御所に参内した。
御所各門(禁門)は会津・薩摩所司代の兵に固められて閉鎖され、
長州藩や激派の公卿を締め出したまま、早朝に朝議が開かれた。

その結果、次のことが決まった。

1.三条実美ら(長州系)激派公卿の参内・面会禁止
2.国事参政・寄人の役職廃止(国事参政・寄人は激派公卿の集まり)
3.攘夷親征(大和行幸)の延期
4.議奏の交替

更に、長州藩の堺町御門警備解任が勅され、長州藩士の九門内出入り、及び
長州藩主父子の入京が禁止された。

この政変の結果、長州藩とともに三条実美をはじめとする激派公卿(七卿)は
都落ちして、朝廷は「公武合体派」の掌握するところとなった。

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この『禁門の政変』の時、近藤勇らは「蛤御門」の警備に出動したのだ。

この働きが認められ、武家伝奏より『新撰組』名を拝命し、
後日、朝廷より「下賜金」を拝領したのだ。

以上が・・・新撰組誕生の瞬間・・・であります。

「島原の太夫」が蛤御門を撮影しました。・・・ ここをクリック