第21話
竹田街道九条河原銭取橋に陣を構える。
京都から追い出された長州藩は、国許に於いても、派閥争いが起きていた。
倒幕を主張する「急進派」と「俗論派」に、二分されていたのだ。
「池田屋事件」の報告が京都の留守居役から国許の長州藩に伝えられたのは
事件の数日後、六月九日頃らしい。
長州藩内では、もはや「急進派」に自重論を唱えるものも居なくなり、
六月十日には京都に向けて第一陣が出発して行った。
隊長には血気にはやる来島又兵衛(47歳)であった。
長州藩士はぞくぞくと京都周辺に集まってきた。
来島又兵衛率いる長州軍は、二十日前後には、「嵯峨・天龍寺」に陣をはった。
久坂玄瑞、真木和泉率いる長州軍は、六月二十四日山崎の「離宮八幡」から
「宝積寺」の一帯に陣をはった。
福原越後率いる長州軍は、六月二十四日伏見藩邸に陣をはった。
長州軍は、六月二十七日に長州伏見藩邸より、朝廷に「入京願い」を出した。
新撰組は、六月二十八日竹田街道九条河原銭取橋(現在の勧進橋)に陣を構えた。
孝明天皇は京都守護職を支持する旨と、長州兵入京拒否の勅書を出す。
朝廷は、長州伏見藩邸に「撤兵の勧告」を出す。
その後も、長州藩からは700名ほどの兵が増員される。
長州軍は1800名の兵力となった。
約20日間ほどの交渉が行われているのだが、最終的には交渉は打ち切られ、
そして、七月十八日幕府側から「撤兵の最終勧告」が長州藩留守居役に出される。
・・・・七月十九日、『禁門の変(蛤御門の変)』となるのである。・・・・